元山手線運転士で、現在は参議院議員の たしろかおる です。
今回は、私や鉄道マンの仲間たちの体験談やエピソードをお送りするシリーズ「鉄道マン たしろかおる のナイショ話」です。
2011年3月11日に発生した東日本大震災から間もなく5年になります。改めて、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された地域の復旧と復興にこれからも尽力する決意です。
また、私は鉄道の現場を誰よりも知る国会議員として、災害時の鉄道の安全、防災と減災についても、現場の声をもとに国政の場でも具体案を示し、対策を求めてきています。
東日本大震災の教訓を風化させず、後世の対策にいかしていくという思いも込めて、今回より4回にわたり、東日本大震災発生時に鉄道業務についていた私の仲間たちの証言をご紹介したいと思います。
今回は、実際に津波にのまれてしまった列車に乗務していた鉄道マンたちの証言です。
(写真)津波に流された車両・・・常磐線新地駅付近
仙台発原ノ町行244Mは常磐線新地駅に到着直後、強い揺れに襲われました。揺れがおさまると、乗務員は列車無線や業務用携帯電話で輸送指令と連絡を試みましたが、つながりませんでした。
乗務員は乗客の避難誘導と、列車の監視をする任務があります。輸送指令からの指示が得られない以上、自身で判断するしかありません。幸いにも、列車に同乗していた警察官が乗客を避難所へ誘導することを申し出てくれたことから、乗務員はその場に残り、列車監視を行うこととなりました。
乗務員は車両に備え付けられていた災害時用の携帯ラジオで情報を収集し、大津波警報が出ていることを知ります。しかし、新地駅の海側は下水処理場と松林が広がり、海が見えるような場所ではありません。ですから、乗務員は車両に待機し、列車監視を続けました。
たまたま、新地駅の駅舎に状況を確認しに行った乗務員が跨線橋を上がって車両に戻るとき、この乗務員は「波」を見ています。しかし、まだこれが津波だと気づきません。車内に戻り、他の乗務員に状況を説明し、もう一度状況確認に向かおうとしたとき、近くの建物の屋根の上を水しぶきが乗り越えてくるのが見え、急いで車内に残っている乗務員を呼び、跨線橋に駆け上がりました。
津波はあっという間にホームを乗り越え、乗務していた4両編成の列車は後2両が浮き上がり、横倒しになって駅舎と一緒に流されていきました。残った前2両も浮き上がり、跨線橋にぶつかりながら流されていきました。このとき、跨線橋が壊されそうになり、もうダメだなと乗務員は思いました。
何とかこの第1波に跨線橋は耐えましたが、続く第2波は跨線橋の上まで水がきて、そこに第3波が見え、乗務員は再度「もう終わったな」と思いました。しかし、何とか跨線橋は津波に持ちこたえました。
(写真)津波被災後の常磐線新地駅の跨線橋
この間乗務員たちは、関係箇所との連絡を試みましたが、携帯電話はつながりませんでした。20時過ぎにやっと職場と連絡がとれましたが、大津波警報が出ていることから、救助の手は届かず、翌朝6時まで乗務員たちは跨線橋の上で寒さと恐怖に震えながら夜を明かし、自力で避難所に向かいました。
東日本大震災時、業務についていた鉄道マンたちは、それぞれが当時の状況の中で精一杯の判断をしながら乗客を避難させましたが、自らの命も危ぶまれる状況の中にありました。
ここにご紹介したのは、多くの乗務員が経験したことのごく一部ですが、これらの現場の生の声をもとに、鉄道マンの仲間たちは通信手段の確保、マニュアルの見直し、避難・誘導のあり方等を具体的に提言しています。また、この仲間たちの声をもとに、私は国政の場で、減災や防災の対策、実態にふさわしいハザードマップの作成等を国に求めてきています。
教訓を風化させず、教訓と具体的対策を後世に伝える。それが現場を誰よりも知る私の任務だと思っています。
今回もご覧いただき、ありがとうございました。
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