遠足の行き先が決まった時、思わず首を仰け反らせてしまった。目線の先には、いつも代わり映えのしない教室の天井に、蛍光灯が等間隔に並んでいる。

 明るいこの時間には存在感がない蛍光灯。

 いつからか僕自身もそんな、昼間の蛍光灯になってしまった気がする。

 去年にの今頃、早苗と出会ったのだった。窓の外には新緑の薫る景色があって、ちょうど1階分低い位置になったけれど、丘の上にある分見えている遠くに見える景色は変わらない。

 ちょうど視界の先に離陸してきたばかりの、空飛ぶクジラが見えた。

 『そんなシンクロいらんわぁ』と胸がなおさら痛くなった。とはいえ、水族館におったんはクジラではなくて、大きな鮫やったと想い返す。

 僕の机の中にはもう、早苗との交換日記はない。

まだ続いていたとしたら、なんと書いただろう。

 『まさかな。』

 『どないしたん、えらい憂鬱そうな顔して。結構あの水族館面白いらしいで。大きいクジラもおるんやろ』

 『大きい鮫な。知ってるよ。だから余計に憂鬱なんやわ。』

 『なんで』『なんでも』

 武田とそんなやりとりしながら、水族館なんて中学校の遠足コースとばかり思っていたから、油断してたとも思う。嵐山か、その辺りとばかり思っていた。まさかの高校2年生で水族館への遠足なんて。

 かつて、小学校の2年生で水族館の遠足へ行ったのだった。それがリニューアルしたから、と中学2年生の遠足になった。まさか、また新しい水族館が出来たからって、高校2年生になってまで遠足場所に採用されるなんて。なんだったら、いまの子ども達は、高校2年になるまで、遠足では水族館に行かなくなるのかな。

 いや、水族館は行っとかないと、とかなったら、小学生と同じコースの遠足か

 楽しい場所だったし、よい思い出の場所だ。だからこそ、もう二度と行きたくなかったし、そういう約束もしたのに。

 机に突っ伏して、武田の追跡に無視を決め込んだ。

 

 遠足当日も、小雨が降っていた。

 高校生の遠足で全天候型の水族館となれば、決行を妨げる要素などなく、当然のように遠足は実施された。

 現地集合という形は、時間さえ計算すれば、早苗の影を追いかけ無くて済む。絶対に会わない時間であれば、もしもの期待すら持たなくていい。

 いま思えば、どうして参加したんだろう。休むという手段もあったけれど、あの頃は思い浮かばんsかったな。

 武田も湯浅も和樹も和哉も、他の友人たちからも一緒に見て周ろう、という誘いはあった。

 ただ、何もかも、想い出につながるすべてを上書きしたくはなかったから『前に来た時に水槽の歪で酔いそうになったから、先に行って出口手前で待ってる』

 そう言って、早足で人混みを縫うように先へ先へと進んで行った。後から出発する早苗に、間違えても追いつかれないように。

 水槽越しに間違って見つけてしまわないように。

 一瞬の後ろ姿、遠くの声でも、気づいてしまう。見つけてしまうのだ。

 探しているわけではなくても。

 この水族館の売りが入口の5階から地下の底まで続く、1本の大水槽だった。太平洋の表層から深海へとひとつづきをイメージしたそれは、水槽の周りをぐるりと階段が螺旋状に取り巻いて、見る人達をゆっくり深海に沈めていく。

 遠足という事で、短期的に入場制限とはいかないまでも、うちの学校の生徒ばかりになったタイミングに、先を越して歩いたので、一方通行の水族館内は、意外と空いた感じになっていた。おかげで、雄大な海の景色を一面に見ることができた。

 前来た時は、人の頭と、早苗の横顔しか印象に残っていなかった事に改めて気づく。

 階下から水面を見上げる。

 プールの底にいる時みたいに空気の塊が水面に向かって無数に浮き上がっていく。

 暗い青の透過光

 周りを取り巻く制服姿もいまだけは気にかからなくなった。

 堕ちていく。ずっと底まで。ゆっくり浮力を感じながらも、きっとこころの重み分で。

 そんな気持ちで階段を降りきった先にベンチがあった。 

 何重にも重なり続けた水色のフィルターをさらに重ねた水の底の光。海の底は闇なんだろうけれど、きっと人がイメージするだろう、深海そのものな空間の奥に、そのベンチはあった。

 階段から降りてくる人たちは一様に、最後の海の底の景色の方へ首を向けて名残を惜しんで、通り過ぎて行く。その為もあってか、水槽から少し奥まって、光がほとんど届かないベンチに気づく人はあまりいないらしい。

 しばらく水面に向かう泡の揺れを見ていたら、武田と湯浅が手をつないで通り過ぎていくのが見えた。『いつから?!』と思ったけれど、今日のいまかもしれない。

 ここはそういう雰囲気を生み出す場所だと思う。

 この地方の街に住む多くの高校生は本物の海を知らない。だけどここに来れば、海を感じるのだと思う。波音すら聞こえない。波の動きも見えないのに

、こころはとても落ち着く。

 人が、生き物が海から生まれて事が、わかる、なんて言う気はないけれど、ゆっくり目を閉じたくなった。

 ざわめきは、どこに吸収されて行くんだろうか。入り口までは、あんなにざわざわしていたのに。

 そう思いながら目を閉じていたら、隣に誰か座る気配があった。左の肩に重みを感じる。さらりと髪が頬に触れる。

 懐かしい匂い。随分と一緒にいたから忘れる事は無いと思っていたのに、こんな香りだったな、と今さら思い出している自分がいてちょっと驚いた。時間はかくも残酷なものだと。

 それでも、目を開けなくても隣に誰が座ったのかはすぐにわかった。温もりの感じも、変わらない。波のように静かに声が届く

『ずっと好きだよ』

『誰のセリフだよ』

『早苗のだよ』

『彼氏いるくせに』

『気にする人だった?』

『たかみつは早苗のこと好きだよね。知ってるよ。』『ずっと見ててくれてることも。』

『ありがと。でもね、早苗もさ。たかみつのこと見てるんだよ。気づいてなかったでしょ』

『たかみつ、忘れないでね。早苗はさ、ずっと、ずっと、たかみつのこと好きでいてるんだよ。これからもね、ずっとだよ』

『それこそ、僕のセリフだよ。』

肩越しに笑っていることが伝わる


『それもそうだね。』

『じゃあ、いくね。』


バイバイと聞こえたと思う。

匂いや温もりは急速に薄れていった。

 ゆっくり時間をかけて目を開けた。

 薄い群青の光の端から、最終組の男子、がひとりで歩いていくのが見えた。 他の男子と連れたって歩くわけでもなく、ひとり歩きはうちの生徒にしては珍しい。

 きっと、あれは早苗の彼氏だと思う。

 『一緒に見てまわってたのではなかったのか』

 左肩の温もりに手を合わせながら、通り過ぎていく姿を最後まで見ていた。

 そろそろ行くかと、立ち上がり、もう一度水槽の底から水面を見上げる。

 遥かに先に見える水面。ゆっくり浮かび上がっていく気泡。

 早苗との関係に似ていると想う。

 結局水の中では、きれいに目に浮かんで見えていても、水面から出てしまえば消えておしまい。

 ふたりで一緒に沈めなければ結びつくことは、もうない。一緒に絡み合って沈んだり浮かんだりする事も。

 雨の音が聞こえる気がした。

 本当に早苗といる時は雨が多い。

 きっと今日のこともいつか振り返る。雨の音と一緒に。

 

 朝集まった場所と同じ、水族館手前の広場での点呼でもって、出席扱いとなった遠足は、出口でチェックを受けた後、現地解散となっていた。

 普段の校則とは違って、今日は解散後の食事も禁止にはなっていない。

 見回しても普段なら、出口付近で待ってそうな武田もいない。湯浅も見当たらないから、そういう事だろう。

 だまって、言ってしまうところが武田と湯浅らしくていいな、と思う。

 変な気遣いの無さは、なんだろう居心地はいい。

 どうせ、和樹も彼女と一緒だろうから、さっさと帰ろうと、近道がてら、よく通ったモール内を通り抜けようとした。その時、フードコートでふたりを見つけてしまった。

 早苗と目が合う。

 いつもの反応。

 反応が無いという、いつもの反応。

 目は動かない。そのまま目線は僕を通り過ぎた後、声をかけたであろう彼氏の方を向き、ふたりでこちらに顔を向けたはずだ。

 そこにはもう、僕はいない、というタイミングで。

 早苗は僕を見つけて僕を見ない。いつもの事だった。あれ以来。

 彼は何もない空間を見て、また早苗に話しかける。彼の笑い声は僕の耳には届かない。

 早苗の『ぼーっとしてただけ』という音だけを拾う。僕の耳の不思議な能力。


 心臓が壊れればいいと思う。これだけ早く動くなら。どうせ壊れたりしない。健康な高校生の心臓はしあわせな事に、恋に破れたくらいではびくともしない。

 雨だってそうだ。

 傘をさすと思い出すのがつらくて、いっそう雨に打たれて風邪をひけば良いと、何度思ったか。

 結局、心配させてみようと思ってる限り、そんな都合の良い病気は神様だって用意してくれない。

 皮肉なくらい、水泳部でいる人間は水に濡れた後、自動的に自分の体を守るように働いた。


 いまはただ、急いで外に出たい。同じ空間にいたくない。

 その想いだけを持って、急いで外に出た。

 

 思った通り、静かに雨が落ちていた。

 見上げるとミストのように、雫が顔を覆っていく。サラサラとした感触。

 涙が出ていたのかも知れない。

 堪えていたものが、雨でもって飽和量を越えて溢れたのだと思う。

 泣くものか、と決めていたから。


 前を向く。

 遠くに地下鉄の駅が見える。

 屋根のない道

 灰色の街

 ここは僕の済む街よりも緑が少ない

 古くからの港町は灰色がよく似合っている


 色に馴染めば、きっと僕は街と見分けがつかない

 『バイバイ』


 そう言って、歩きだす