風邪をひいてから少しはなれていました。
週末にかけて、身内が他界しました。
前までは、葬式より仕事のアポが気になって仕方がなかった
ふとどき者の私だったのですが、
今は、人が変わったように、予定をすべてひっくりかえし、
最期に寄り添っていました。
すべてより、これが大切だと、感じたのでそうしたのですが。
自宅葬儀という形をとりました。
誰にも知られず、ひっそりと、大好きな、自宅にて。
かねてからの希望でした。
そういうところ、私、よく似てるんですよね・・。
血を引き継いだのかなって。
私、自分の心や姿がみにくくなると、人前には出てこなくなるみたいで笑。
住むには大きすぎる昔ながらの、ひんやりとした長屋、黄ばんだふすま、
古い家財に、晩年は読むことができなくなった大量の書物、
台所のにおい、居間のにおい、手つかずで草ぼうぼうの裏庭の畑、
外から入ってくる、キンモクセイの香り。
自宅だから、よけいに、思い出とともに、お別れでした。
きっと、このお家は、いずれ、なくなる、
最後かもしれないからと、長い廊下を何往復もしました。
昔は、うさんくさいと思っていた、お寺さんの説法が、今は聞きたいと思いました。
お寺さんの説法なんて、いいから、少しでも早く会社に行かなきゃ、
そんなこと、数年前は、たしか、思ってたよなあ・・・。
私、仕事において奴隷体質だったかもしれませんな笑。
今でも行われている葬儀のお経は、昔ながらの自宅葬儀の流れ、
つまり、自宅から出ていく、自宅とのお別れの念仏、
自宅から火葬場まで運んでいくときの念仏の2つを行うらしく、
今の主流の、(自宅からすでに出てしまっている)セレモニーホールで
2回お経を行うのは、知っているお寺さんが見ると、どうもおかしい、とのこと。
今は、ほとんどなくなった、水入らずの自宅での葬儀、とても、いいものですねと、
しんみり、語ってくれました。
お寺さんの説法は、こういうときにしか聞けないので、
こういうときだけでも、日頃の邪念をとりはらって、
人との出会いに感謝したり、
いただきものの生命だから、もっと人生を満喫して過ごさなきゃと思えたり、
しているのであります。
疲れたので、ちょっと、寝てました。
病床時から、ほとんどの予定がなされておらず・・。
そろそろ、取り戻していかないとな・・。
ちなみに、自宅葬儀は、親族からも参列者からも好評で。
自分のときもぜひ自宅で。そういうお声があちこちから・・・。
世間とのつながりから、なかなかできない人も多いと思いますが、
葬儀の本来の目的を、再確認できたのでありましょう。