今日出会った方は、なんと、高校の同級生でした。

というオチがあった日でした。


高校の同級生!?


もしかして、今、成人して初めて、高校の同級生という人に

会ったかもしれない・・・。


なんとも、交友関係がゼロに等しく生きてきたことを

とても、さみしいと思った日でもある。


とはいえ、1学年15クラスくらいあったし、

クラスも、なぜか、飛びとびに分かれていたから、

クラスがちがえば、一気に誰なのかわからない高校だった。


高校にかぎらず、もっと以前、幼いころから、

交友関係は、ほぼゼロで生きてきた私。

ともだち、なんて、私、いましたっけ・・?

いっつも、一人ぼっちでした。


それは、大人になっても、あんまり変わらず、


でも、脱サラしてから、ちょっとずつ、人が好きになってきました。


今、思うに、

私、闘うことが嫌いなくせに、闘う場所に身を置きすぎたから

ああなったのだと思うのです。

やっつけ、やっつけられ、

たぶん、本当は、すごく、いやだったのだと思います。

私、和を愛するてんびん座だし(笑)、

何かおかしいと、ずっと思ってたんですよ。


私、今、もっとも目指している姿は、

闘わないで生きること。


人にやさしく、自分にやさしく。

人も自分も愛すること。


バリバリのノルマ漬け営業マンには、もう、戻りたくないし、

飽和状態の市場に参入していく技術者もいや。

それでは、私は、人にも、自分にもやさしくなれないから。

闘っているかぎり、私は誰にも、自分にさえ、やさしくなれないのです。

闘いに負けて、泣く人だって、見たくない。

「闘い」は、美徳といわれますが、私には、もはや、そう見えていない。


闘わずして、生きること。


サラリーマンである以上、私は会社のために闘うことが使命であり、

闘わずして生きる、というのは、たぶん、脱サラの特権。

どう闘うか、闘わないのか、決めるのは、すべて自分。

その、特権を、今、私には、ようやく与えられたと考えよう。


経沢さんやら、サイバー社長やら、

私はあの人たちに憧れ、あの人たちのように、なっていく、


脱サラ当時はそうも思っていたが、


まったく、私は、ちがう人間でした・・・。


なんていうか・・・・

賢くやりたい。何ごともエイエイオーで元気と若さが取り柄ということではなく。


闘わずして、生きのびること。

ちょっと、方向転換です。