まだ若かった頃、人間って何だろう?人生って何だろう?と、朝から晩までそんな事を考え続けた時期があった。自分は何のために生まれて来て、どう生きるのが正しくて、今生きているこの命は何処から来たもので、何処へ還っていくのか。納得のいく答えはもちろん見つからず、そして周りの誰もが明確な答えを持っていなかった。皆がそれを分からないのに平然と生きていられるのが、どうにも解せなかった。生きる意味が見いだせなければ、前向きになんて生きられない。当時は抑圧の強い環境で生活していたことも手伝って、絶望的に無気力になっていった。

 

 無気力から逃れようと、次第に享楽的に振舞うようになった。時はバブル。しょっちゅうどこかで「パーティー」が開かれていて、ワンレンボディコンハイヒールでせっせと出かけた。ああ黒歴史を思い出す。しかもちっとも楽しくないのにそれを一生懸命やっていたというところが最も恥ずかしい。愚かしい日々。

 

 いつしかバブルがはじけ、享楽的生活の虚しさも身に染みて、私はまた答えを知る道を求めるようになる。哲学書を読み耽り、聖書をはじめ様々な経典を紐解いて、先人の知恵に答えを求めた。そうした流れである時禅の道場にご縁ができて、しばらく坐禅の修行もした。それからまた、数々の偶然から真言密教の修行に触れる機会に恵まれて、瞑想をするようになる。

 

 さてさて、座禅や瞑想を始めて20数年、例の問いの答えは得られただろうか。答えはイエスでもありノーでもある。今の私は以前ほど狂おしく答えを求めてはいないし、悩んでもいない。それは私が何やら腑に落ちたからだ。ではそれを説明してくれと言われると、まったく言葉で表現できない。しかし私は深く納得している。なぜ生まれて何のために生きるのか。自分は何者で、いかに生きるべきなのか。何処から来て何処へ行くのか。そしてそんなことに深く悩み苦しんできた自分が心から愛おしい。腑に落ちて納得するというのは本当にありがたい。あの苦しさがいつの間にか消えていることにふと気づいたときの達成感。見上げた空にさえ一体感を感じ、空を宇宙を目に映るすべての風景を、抱きしめたくなる。私はこの問いを問い続け、悩み尽くして腑に落ちたのだろう。長い年月をかけて、ようやくここへたどり着いた。

 さて、そろそろお茶にしましょうか。