今日(日付は変わってしまったけれど)、自分が「だれかと暮らす(追記:生活の一部として、うちの中にだれかが居る)」イメージを全く持てていなかったことに気がついた。友のちあきちゃんとのやりとり通して、

      
*ちあきちゃんのブログ
正確に言うと、「おかえり〜」とあたたかく迎えてもらうことも、だれかが待つ家にいそいそと帰るのも、「ただいま〜」と靴を脱ぎちらかすようなことも、すっかり諦めていたようなのだ。意識から完全に外れていたから。
        
家族とは23年間、夫だった人とは7年間、一緒に暮らしていた。離婚後は、1人で生きていかなきゃと必死だったように思う。特に離婚直後は、自分はだれも幸せにできないのだと落ち込んでいたし、もともと単独行動が普通、1人で居ても寂しいと思ったことはなかった。そのまま、だれかを想うこともなく、心が麻痺し続けていたのかな。
       
自分以外のだれかが家にいて、「おかえり〜」と迎えてくれる暮らし。当たり前の関係の、あたたかくて幸せな風景。
      
そんなイメージを一瞬で描かせてくれた、ちあきちゃんからのメッセージ。不意に泣いてしまった自分に、驚いた。 
      
「大丈夫。私が薫ちゃんを迎えます」というちあきちゃんのメッセージを前に、さらに涙がこぼれる。もう、顔面崩壊。うわぁぁぁん!
       
佐藤初女さんの「森のイスキア」が、いつの頃からか、ずぅっと気になっていた。
       
といっても、おむすびをこしらえたいわけでも、料理が得意なわけでもない。悩みを聞いたり、不安や痛みを分かち合いたいわけでもないし(不安や悩みを聞きたくないのではない)、人が求めているアドバイスはできないから、自分がだれかを救えるなどとは思えなかった。特別な居場所を作りたいわけでもなかったし、森のイスキアを訪ねてみたいという気持ちもわき上がらなかった。なのに、どうして強く惹かれるのか。本当に不思議だった。
        
わたしはずっと、だれかを「おかえりなさい!」と迎えたかったんだ。「ただいま〜」って言いたかったんだ。家族とか妻とか嫁とか、役割を超えて、人として、当たり前の関係において。
      
ちあきちゃん、ありがとう。
   
「おかえりなさいました」って、迎える側の喜びや安堵の気持ちもたくさん含まれていて、あたたかい。