8月下旬の日曜日(2日間)、《兵庫・本質的な叡智のバトン》に参加した。

   

《本質的な叡智のバトン》ってなんですか、と聞かれると困ってしまう。ふだん、むずかしいことをやさしく言い換えたり、長い文章を端的にまとめるような仕事をしているはずなのに、《本質的な叡智のバトン》や本質というもの、人生について語ろうとすると、とたんに言葉が飛んでいく。

 

だから、「本質って何?」「バトンって何?」と疑問に思った方は、どうか、そらさんのブログや、登場する友たちのブログを読んでみてほしい。

  

*そらさんのブログ

https://ameblo.jp/sora-ni/entrylist.html

 

わたしのように、読んでも読んでもつかめない(だから、知りたい!となる)かもしれないけれど。もし今、人間関係で悩んでいたり、自分は問題を抱えていると感じていたら、何かしら気になるところがあるんじゃないかと思うのだ。

 

《本質的な叡智のバトン》という場はだいたい、そらさんの「何か、ありますか?」とか「知らない人がいたら、適当に自己紹介してください」という投げかけで始まる。

  

葛藤が語られることもある。質問が続くこともある。しーんと静かなひとときが続くこともある。その人らしさを感じてほわぁっとしたり、涙を流さんばかりに笑いころげている時もある。近ごろは、笑いころげてばかりいるような…。

  

当初、わたしは「本当の自分を知りたい」と願っていた。けれど、自分で自分のことは分からないし、分かるはずもないのだと知って心から安堵して以来、相手を知り、相手との違いを感じることがおもしろくって。おもしろすぎて、しょうがない。

  

人のことが分からず、自分のことも分からないことにおびえ、そんな自分を嫌悪し、生きるってしんどすぎる、いつ死んでもかまわない…と思い続けた人生が、こんなにもキラキラしたものになるなんて。頭の中が、ここまでお花畑になる日がくるなんて!(←適切な言葉が見つからないため、ばかっぽい表現になってしまうよぅ)

 

相手を知りたい、相手の人生を知りたい、想像など遙かに超えて織り成されていく人生というものを知りたい…と心から願う人たちが集う。それが《本質的な叡智のバトン》という、他にはない場。そらさんのような人物にも、そこで語られる様々な事実にも、これまでの人生で出会ったことがない。

 

あやしい、と警戒されるかもしれない。スピリチュアル的なものなんじゃないの、と思うかもしれない。いくら言葉で説明しても、拭えない疑念はあるだろう。

 

だからわたしは、わたしという存在を見てもらうしかないなぁとあらためて思うのだ。

 

言葉を扱う文案業でありながら伝わるように表現できないとしたら…こうして(ニコニコしながら)途方に暮れている様子をそのまま見てもらって、何かしら感じ取ってもらうしか、わたしにできることはない。

   

かつて、人ごみが苦手だったわたし。人から見られることが怖くて、人前で話す場面では声も膝もふるえ、冷たい汗が滝のように流れていたわたし(苦手なのに、なぜか挑んでしまうのもわたし)。

     

人生が楽しいものだとは思えず、生きるのがつらくて、そんな自分を変えたくて、人生をよりよくしたくて…占い師に見てもらったり、精神世界や心理学的な本を色々読んだり、魂の色とやらを見てもらったり、「見える」らしい人物に思いきり影響を受けて(世の中で言うところの「人間関係」が)大崩壊したわたし。

 

目立たないよう、人の邪魔にならないよう壁にはりついたり、すみっこに居たくてたまらないのは今も変わらないし、本当は自分語りなんてとんでもないことなんだけど…表現手段が自分自身しかないのだから、それはもう活用するしかないだろう。

 

あぁ…いつものことではあるけれど、またしてもハチャメチャになってしまった。先日参加した《兵庫・本質的な叡智のバトン》でのできごとや感想を書きたかったのに、その周辺をぐるぐるまわってしまっている。いや、輪郭をかすめているならまだいい方で、明後日の方向へ突き進んでいるんじゃないかしら。うーうーうー!

 

ちなみに、今日のこのブログを書き始めた時のタイトルは「出戻り1号」だった。近々、1号はいやだーというお話を書けたらいいなと思っている。