「違う。僕は、お前なんか・・・」

「何が違うものか。お前は夏美に俺を取られる事を恐れているだけだ」

 悪魔はケケケと微笑った。卑劣な笑い方だ。つがわは眉をしかめた。とても、不快だった。つがわは無意識にピアスを触っていた。その石の力を得ようとするかのように。そのスカラベのピアスはつがわの石の現れだった。スカラベは自己発見を助け、信念を強めてくれるらしい。悪魔はまだ下劣な言葉を吐いている。

「まあ、俺は男でも女でもないからな。なんなら、そこらの女に取り憑いて相手してやろうか?それとも男がいいか?」

「じゃあ、夏美ちゃんに取り憑けよ。そうしたら、お前ごと愛してやってもいいぜ」

 悪魔は黙り込んだ。とたんに背中に熱と痛みが襲いかかる。つがわは苦痛に顔を歪めた。しかし、悪魔から目を反らさない。睨みつけている。悪魔の瞳に怒りがみなぎっている。悪魔の純情も、まんざら嘘でもないようだ。つがわと悪魔は鏡を隔てて睨み合っていた。お互いに別の身体を持っていたら殴り合いになりそうな雰囲気だった。

「オレハ、オ前ヲ支配シテ、夏美二アウンダ」

 その言葉は呪文のように聴こえた。もしかしたら、そうだったのかもしれない。悪魔は地の底から響くような声で言葉を返した。それにつれ、つがわの身体がどんどん重くなり起きていられなくなった。つがわは床に倒れた。身体中が炎のように熱い。つがわは床の上でのたうち回った。声にならない叫びが部屋の中に満ちる。

「オ前ヲ支配スル。オ前トイウ自我ヲ抹殺スル。永遠二」

 脳細胞が焼け付くようだ。痛みも熱さも限界を超えている。気が狂いそうだ。今までのとは桁違いな体罰だ。体罰というより虐殺だ。悪魔は本気でつがわを抹殺しようとしているのか。つがわはその苦痛に悶ながらも目を見開いて鏡を見ようとした。あぐらをかき、腕組みをしている悪魔は、さっきとは別人のように冷ややかにつがわの苦しむ姿を見ている。その口元が引きつるように歪んでいる。微笑っているのだろうか?つがわの右手は鏡の悪魔をつかもうとでもしているかのように空を掴んだ。悪魔は軽蔑するかのように軽く鼻で微笑った。そして、右手を前に突き出すとその拳に力を込めた。つがわの心臓が締め付けられる。その激痛が限界を超えた瞬間、つがわは気絶した。

 

 つがわは夢を見ていた。

 ここは楽園だ。アダムとイブがいる。ふたり共一糸まとわぬ裸のまま楽しそうに微笑っている。本当に幸せそうな顔をしている。現代の人間にない光り輝くような至福の微笑み。それは、永遠に続くかと思われた。しかし、ある日、一匹の蛇がイブの前に現れた。蛇は巧みにイブを誘い、禁断の果実を手に取らせた。そして、それをふたりで食べるように促した。アダムとイブは、とうとうそれを口にしてしまった。すると、それまで持っていなかった感情が波のように押し寄せて来た。シャイネス(恥ずかしさ)とその裏に隠れる欲望。突然、襲いかかる神の怒り。汚れたふたりは、楽園を追い出された。泣きながら、楽園を後にして歩き出すふたり。闇の中で笑う蛇。

 

 夢が変わる。

 暗い所で泣いている幼い夏美。誰かが見ている。夏美は視線を感じて泣くのを止めた。夏美の前に現れる悪魔。それは、一冊の本から出て来た。悪魔は夏美に言った。脅すかのように。そして、夏美をもっと苦しめる為に。

「願イ事ヲ叶エテヤッタラ、オ前、俺ノ代リニ、コノ本ノ中二入ルカ?」

 涙の後を残したままの顔で夏美は悪魔を見つめる。虚ろな瞳。愛情に飢えた色をしている。それは、罪に痛めつけられたようにも見える。夏美は本の中に入るという事を理解した。それは、永遠の束縛を意味する。夏美は答えた。

「抱きしめてくれたら」

 それは、身の毛もよだつ悪魔に向けられていた言葉だった。悪魔の心の中で何かが溶けていく。それは、氷のような心。泣いている夏美よりも、もっと苦しんだ心。悪魔は微笑った。さも面白そうに。何故なら、それは、悪魔自身が求めていながら言えなかった答えだから。その悪魔こそ、あのイブをそそのかした蛇の化身だった。蛇はイブを愛していたのだ。しかし、その醜さ故に、愛は憎しみに変わった。ソレが、今、又愛に変わったのだ。悪魔は夏美の手を取り踊った。そして、夏美の心の奥に秘密の鍵を隠した。夏美の願いは未来の扉の中に消えた。

 扉を探す旅。そして、夢は足を持って歩き始める。

 夢から覚めた夏美は現実を見つめ始める。学校、タレントスクール、外の世界、そして、東京。場所が変わっても何故だか満たされない思いばかりが残る。旅、旅、旅、人、人、人。時を超えながら、全てを変化の中に投げ込む。思い出は細切れにされたフイルムのように瞬くばかり。それらを横目で見ながら同じように彷徨う悪魔。運命の扉を開く時をうかがいながら。そして、時は満ちた。計画は完璧のはずだった。しかし、突然、運命の流れから身を翻す夏美。残された悪魔。鍵は秘密のまま空に漂う。

「B'z好きなの?」

 一点の光が見えた。B'zの音楽は止まっていた運命の糸紡ぎの輪を強く弾いた。回り始める運命。そして、一番若いクロートが金の糸を紡ぐ。美しく成熟したラケシスが金の糸を計る。年老いたアトロポスが輪を回す。そして、悪魔を宿したつがわが夏美の前に現れ扉のノブに手をかけた。しかし、まだ、鍵がかかっている。扉はガラス張り。悪魔はガラス越しに夏美を眺めるしかない。切ない空間。夏美はその奇跡の意味を知らないまま、又、平凡な眠りについた。闇の深い森の眠り姫のように。目覚めのキスに変わる鍵の正体は何?早く扉を開けて、夏美の願いを叶えなければ。時間の砂は刻々と落ち続ける。そして、夏美は、まだきっと乾いた瞳の奥で泣き続けているのだろう。

「オレハ、オ前ヲ支配シテ、夏美二逢ウンダ」

 夏美の知らない場所で悪魔は叫んだ。それは、鏡の中。まだ、つがわの身体を自由に出来ない悪魔に取って、直接逢う事は無意味だ。確かに夏美は生身のつがわを見るだろう。しかし、鏡の牢獄に閉じ込められている悪魔を感じる事は無い。つがわが夏美を抱き締める事は出来ても悪魔には出来ない。方法はひとつ。悪魔は強行手段に出た。生身の身体を独占する為に。