当時のTBSテレビ局前の喫茶店に初めてウエイトレスとして働き始めた時は、友達と、まだ、埼玉県の奥に二人暮らしをしたままでした。
朝の早いモーニングの時間の為に、結構な距離を満員電車で通勤していたものです。
一度、体調が悪い時、満員電車での通勤のハードさにやられて、池袋駅で職場に電話をかけ、休ませてくれないかと言ってみたら、とにかく、一回職場まで来てからだって言われて、少し、駅で休ませてもらってから、酷い思いをして、仕事場まで行った事があります。
多分、ずる休みを疑っていたのでしょうが、それを非難する人もいれば、私のように「プロ根性」を発揮する人間もいるものです。
私は、東京で初めてマトモに仕事を始めたこの喫茶店で「プロ根性」という物を徹底的に教え込まれた気がしました。
履いていた靴もほんの数ヶ月で履き潰してしまう位に、心身共にキツイ仕事ではあったけれども、芸能人のお客様も結構いたり、仲間に恵まれたりして、楽しい東京生活をエンジョイしていました。
しかし、東京には、夢だった芸能界に関わる仕事をしたいから来たのであって、けして、ただ、家から離れたかっただけではなかったつもりです。
少なくとも、私が、上京する事で、家のスーパーは人を雇いながら、母と兄でやるという事を許してもらいながらの私の決めたワガママなのだから。
東京に働いている間中、夢に父親が出て来た。
時に、モヒカンだったり、長髪だったりしたんだったかな。
死んだ当初の風貌のまま、カッコだけが若者の父は、一体、何を訴えているのだろうかと私も悩ましげでした。
そう、それでも、躊躇いばかりで芸能界に関わる事への行動に出れなかったのは、仕事場が掛け持ち禁止だからとかいう理由ではなかったのです。
そのひとつには、私が芸能界を目指す事で、反対する父の意思に反して、高校で、オーディションを受けたり、レッスンで夜に帰って来るような私を父が気にして自殺したのかと思えた部分があったから。
私は、それを思うと父が死んでから、歌おうとすると喉が詰まってしまうような気持ちになっていました。
レッスンの時も当時の私の歌は、聴いていて辛いと言われていた位の物でした。
自分自身が父への罪の意識から自分に歌を歌わせまい、その道に進む権利がないと思わせていたのは重々分かっていました。
そんなもの、最初の父に反対される前から芸能界や歌に対する強い切望感、焦燥感を消し切る事が出来なかったから、その父が死んだ後でも上京までしているのだから分かり切っているはずなんだ。
行動に出られない理由は他にもあったのです。