今日はあいにくの雨。

私は雨の日が憂鬱でたまらない。

母譲りの頑固な癖毛は今日も元気良くうねっている。

朝食をとっているときはまだ良かったが家を出るときには爆発していた。

足元が冷えるなあとふくらはぎに手を当てるとぱんぱんである。

おお、むくんでいる・・・。

お風呂の中で「細くなれ、細くなれ」と足をさするものの効果はあまりない。

体調は絶不調、髪はトルネードで気分は最悪である。


小さい頃はもっと広がっていた。

最近はストレートパーマというものが発達してきたのでお世話になっているが、やはり時間が経てば癖は出てくる。

「私猫毛なの」という子がうらやましい。


「くせ」とはなかなかやっかいなもので「個性」とはとらえにくい。

「いただけない部分」が「くせ」なのか。


そう考えてみると「くせ」のつく形容詞はほめ言葉があまりない。

「くせのある人間」「くせになる」「癖癖しい」

もともと「くせ」がいい意味ではないようだ。


なんと無知なのか。

最悪だわ。


宮崎アニメは小さい頃からよく見ていた。

幻想的な世界が好きで、時代とともに色彩もより鮮やかになったように思う。

以前「芸能は娯楽に過ぎないのか」と考え悩んだことがある。

芸術としての芸能とはどういうものなのか。


ある日芸術にするよりも直接ありのままをぶつけたほうが強烈である、と悟ってしまうような出来事があった。

「くだらない」

そのときの私は芸術に冷めた感情しか湧かなかったので、いままでの、芸術至上主義の自分を憎んだ。

情けないものだ・・、と。


しかし「千と千尋の神隠し」がそれを払拭してくれた。

ちがう。芸術だの娯楽だの考える必要はない。

伝わるか伝わらないか。

自分の表現を持っているか。

そして、何がしたいのか。


何を表現したいのかと言うと、正直なところわからない。

どうなりたいのか、もわからない。


言葉にできなくてもいいのではないか。

明確なヴィジョンを立てられる人は、それはそれで良い。

ただあいまいでもなんとなくこれをやりたい、あれをやりたい、というようなものがあるだけでもいいのではないか。

趣味でも良い。

なにか心の弾むことができたならば、それでよいのではないか。


自暴自棄とは違うが、自分を束縛する鎖が外れた気がした。

理論ではないんだ。

どうも私は女の子の癖に頭が固い。

私の表現は私の中にある。

そして無意識にこそ個性が隠れているのだ。


宮崎アニメには確固たる世界観がある。

この世界観は宮崎監督しか描けないもので、監督自身から湧き上がってくるものなのだ。

個性は磨くものであえて作り出さなくてもよいと思う。

私という人間の価値が「個性」や「表現」の評価となる。

恐ろしいものだ。



この年末実家に帰る。実家にはビデオがある。

この機に改めて見直してみようかと思う。

夏木マリはハンサムだ。

「どらく」の「ひとインタビュー」を読んで、この人は表現者になるために生まれてきた人だと思った。


私が岐路に立っていたころ出会った映画に出ていた。

「千と千尋の神隠し」

湯バーバ役だ。

最初は夏木マリだとは知らず、恐ろしいほど上手い役者だなあ、と度肝を抜かれた。

お腹の底から、時には骨の髄から発する物は人を飲み込み、もみくちゃにし、その人の筋を抜いてしまう。

パワーがあるからできるわけではない。

才能だけの表現でもない。

ありとあらゆる要素すべてがバランスして、やっとのことで溢れてくるのだ。


これを見たとき自分の存在を疑った。

「井の中の蛙、大海を知らず」

ちょっと周りからちやほやされたからといって一流ではない。

自分は何をやっていたのか。


同時に野心も植えつけてくれた。


とげとげしいわけではないが、バンと自己主張する。

かっこいい。

まさにハンサム!!

久々の銀ブラ。

お決まりのコースがあり、今日もそれに従った。

とりあえずスタバに寄る。新作のパンプキンラテが出ていたのでそれを注文した。

体調が悪いときはここで眠るのだが、今日は絶好調のため次へ。

銀座のブックファーストは静かでゆっくりできるので足しげく通っている。

まず行くのが文芸雑誌の棚。

ダ・ヴィンチ、文芸新潮などに目を通す。ここに居座る時間がほとんどで、「次何読もう」という私の尽きぬ悩みの羅針盤となってくれる。

野性時代を見てみた。

「青年文芸選考会」

ここから新進気鋭の作家が生まれるのだ。

一読者として期待が膨らむ。

次に文庫の棚。

好きな作家のほんを探す。

やはり私は山崎豊子が好きだ。

リアルでエネルギッシュで、現実に起こりうる迫力が良い。


「華麗なる一族」を読んでいる最中に「王子製紙TOB」の文字が紙面に躍っていた。

作品では銀行の合併であったが、自分の生きるこの世の中での出来事に見事に重なり合った。

勉強という粋を超えて世の中の仕組みが見えてくるのこの快感が好きになった。

知ることは素晴らしいことだとも思った。

無知な私は世の中に目を背けていた。

紐が複雑に絡まったたような、とでも言おうか、見たくないものなのだ。

しかし無知であることはこの紐に絡まれ、弄ばれることを意味し、それだけは耐え難いと思った。

おそるおそる開くそのページにはすでに世界が広がっていた。

何枚めくったか、すでに入り込んでいた。

こうだから読書はやめられない。


今日は何も買わなかった。

足取り軽く店を出て、ソニープラザへ。

そこで上の階にカフェがあることに気づく。

この次は新しいコースでも開拓するか。

後輩、同僚、時には先輩に対しても罵倒したくなるときがある。

私は嘘をつけない人間なのですぐ顔に出る。


以前は「真面目」ほど格好の悪いものはないと思っていた。

コツコツひとつのことに打ち込む姿はある人には滑稽に映るらしい。

しかしこれはとんでもない間違いであった。

今となっては人の目など気にもならなくなったが、そのときの私はとにかく人に認められたかった。

努力もせずに欲しい物が手に入るはずもないのに、とにかく何もせずじっと待っていた。


時間は時に冷酷で、時に寛大である。

このいじらしさは時間が解決してくれた。

時間が経てば世の中が変わる。私も変わる。

当然の流れだが、これほど時間が過ぎることに感謝できたことはなかった。


これから私はどうなるだろうか。どうにでもなる、と言い聞かせている。

不安材料は山とあるが、不思議と恐怖はない。

まだまだ青いが、これでもだいぶ図太くなった。

なんとしても生き抜いてやるわ、という気持ちのほうが強くなっている。


やはり「仕事」というだけあって尊敬できる人もいれば反吐が出そうなくらい嫌いな人もいる。

もちろん態度に出ていると思う。

社会に出て思うのだが、意思の弱い人間はなぜすぐ女やギャンブルに手をつけ格好をつけるのだろうか。

これは絶対ではない。ただ私はそう感じる。

私が異常なのか。

まあ、異常でもよい。


格好つけずに生きる。難しいかもしれないが、自分をごまかすことほど哀れなことはない。

とりあえず勉強。

新習慣をはじめましょう。




強烈な眠気。活字がぼける。もうだめだ・・・。

昼食時、いつも私は昼寝をする。

持参したお弁当を事務的に口に運び腕を組んで寝る。

時折眠りが深くなりいすから落ちそうになるが、現実と非現実をさまよい頭は当然のごとく働いていないので周りの目など気にしない。最高に気分の良い、極上のひと時なのだ。


小さい頃から良く寝ていた。

休みの日の昼寝は必ず取っていた。


高校生のとき午後一の授業が社会だった。

社会は嫌いではないが得意ではなかった。また担当の先生の授業が面白くなく、それは殺人的であった。

私は暇つぶしに学級文庫となっている漫画(赤ずきんチャチャと名探偵コナンをよく読んでいた)を読むか寝るかのどちらかだった。

良く晴れた心地よい風の吹く日で授業開始直後睡魔にさらわれた。

気づくとチャイムが鳴っていた。

まさに熟睡だった。

布団にもぐってもこのような快眠は体験したことがなく、一点の曇りもないすがすがしさとはこのことだと実感したものである。


すがすがしいと言えば早朝である。

朝、まだ日の出間もない頃ベットにくっついた身体を無理やり起こし、窓を開けてみる。

朝はどうしてこのように爽やかなのか。

夜の澱んだ空気はどこへ行ったのやら、吸い込む空気に濁りはない。

いやなものがすっと消え去り、新しい息吹、と言ったら誇張しすぎだろうか、全く新しい何かが私を強くする。

活力が徐々に湧き上がってくる。

さあ、今日も頑張ろう。


早朝は良い。ただ昼過ぎが酷である。

しばしばする目を一生懸命見開き、仕事、仕事、仕事・・・。

やはり昼時のオアシスは、私にとって必需品のようだ。

頭の歯車がきしきし言い出したらチョコを食べる。

これはいいわけであるが、イライラしたらチョコを食べるようにした。

CMに惹かれたのである。

GABAという成分がどうやら効果的らしい。


ストレスに効果的かどうかまだわからないが、私はチョコ好きである。

ゴディバからロッテまで網羅している。

もともと甘党で甘いものであれば何でも手に取る。

最近よく買ってしまうのは「ダース」。

ホワイトチョコが良い。

ちょっと前までは「美容のため」などと思いビターチョコばかり選んでいたが、やはり甘ったるいほうが良い。

ただ過剰な装飾はイヤである。

口の中に入れるとひとつの味しかしないほうが良い。


疲れているとき無性に甘ったるい物がほしくなるもので、私の場合寝不足のときそのようになる。

おまけに太る。高カロリー食を好むので当然であるが、なんともいえぬむくみが不快であるのだ。

こう見えても年頃なので体形も気になる。

何事も「ほどほど」がよいようだ。

自暴自棄な人はこれからうまくいかない。

知人が私に投げつけた言葉だった。

今になって数年前のことが蘇ってきた。


年頃になると野心と忠誠心の間で葛藤することになるのだろうか。

少なくとも今の私はその状況である。

野心はないと言えば嘘になる。自分はこんなもので終わるはずがない。

どこかでそう思っている。

ただ家庭に入れば将来安泰、世間体も良い。


今自分のとりえが見えなくなっている。

信じていた物がすっと消えてしまった。

私の中で頑としていすわっていたものが、いつの間にか消えてなくなった。


「特殊」というくくりの中での生活から「普通」に移行し、今まで培ってきたプライドも技術もすべて捨てざるを得なくなった。

そして全くの役立たずであることがわかった。

いままでは何だったのか。

毎日ただなんとなく過ぎてゆき、何もしないまま一年が過ぎた。

毎日会社に行って単調な作業をこなし、時間になったら帰る。

兄弟の食事をつくり、掃除をし、もうその頃になると死にそうなほど眠くなる。


こんなに刺激のない毎日なんて、私にとっては酷である。



こんな愚痴、意味がない。

何かしなければならない。。


最近桃井かおりが好きである。

生き方が素敵だ。

この厳しい世の中を手中におさめ、もてあそんでいるかのよう。

自分に欠落している部分だ。


私はすぐ自暴自棄になる。

どうせ、自分なんて・・・。

一人で頑張っていると急にむなしくなり何もかも投げ出したくなる。

一人で背負い込む必要はないのに、周りにいやな顔をされると断れないのだ。

腹も立てる。

しかし、私は、どういうことか、家族との縁が薄いようで、常に孤独を強いられている。

こんなことは書きたくない。

ただ、私の中では限界なのである。


桃井かおりの新作映画の記事を見た。

やはり奥深い役者にはその人間の哲学が確立されている。

彼女はとてつもなく柔。だからこそ硬に勝る精神を持てる。

傷つき、挫折し、そして後ろを振り返ると自分足跡がちゃんとついていることに気づく。

自分は確かに前に進んでいる。これは間違いない。

そう自覚できる。


彼女は何に傷つき、何を得たのか。


今年の初め、「自分の背丈ほどの本を読む」と決めた。当初は分厚いのに中身の薄いものばかりあさっていたが、自分をごまかすことに後ろめたさを感じ始めた。文庫本を積み重ね、現在48cm。自分の身長には遠く及ばない。


“読書”は正直苦手だった。活字よりも絵のほうが好きであったし、文字から情景を想像できなかったのだ。要は馬鹿。

この馬鹿が本の虫となってしまった。自分でも信じがたい事実ではあるが、言葉の持つ「美しさ」とでも言うのだろうか、ぱっと広がる作者の世界観に酔うのが好きになった。今は松本清張の「黒革の手帖」。やっとたどり着いた作品だ。