オペアとして渡米した話、第二章。
4人いる子供達、それぞれに親ではない目で関わったからこそのエピソードがたくさんある中、
その後の私の人生に大きく影響を及ぼすキーとなったのが、長男8歳との出会いだった。
長男Pは、私がそれまで見たことのある「子供」とは大きく、ものすごく大きく異なる気質や行動様式を示す人だった。
集中できない、独特な思考回路がある、すぐにキレて、そうなると手に負えない、そしてなんと言っても、家中、頭上を飛び回っているイメージ。
毎日、家の中では、Pに対して怒りの頂点となる親の怒号と、子供の泣き叫び、それに伴う両親の喧嘩が絶えなかった。
外部の人間である私は、その状況をけっこう冷静に見ていることができた。
そして、思った。
なんだろう、この子供は。
この子には、何かあるんじゃないだろうか…
親がわりに授業参観に行っても、Pだけ他の子と違って、ただ床を転げ回っている。芋虫のように。
家で宿題をさせて、陰から観察すると、なんとなんと、そこにあった鉛筆を全部、見事バッキバキに折っていた。
学校の先生から舌打ちをされる姿を何度も見た。
一方で、通っていた大学院の授業で、課題を勉強していた延長線に、偶然にも似たような話を読む機会がやってきた。
当時、インターネットなどまだ始まったばかり、ダイアルアップ接続なる「おおらか」なスピードながら、
家に帰ってあれこれと検索していくと、「学習障害」なるものにぶち当たった。
完璧ではないが、そこそこPの様子に近い状態が書かれていた。
しかし、ただの「よそ者」の私が、「あなたの子供、これじゃない?」なんて言うわけにはいかない。
策を練って、その情報をプリントアウトした紙をキッチンのカウンターに他の郵便物なんかと混ぜて置いてみた。
数日経って、その紙の様子が変わっていた。「これは… きっと読んだな」と思いながら待つこと数日。
母親が私の部屋にやってきた。「ねぇ、このプリントって、貴女の?」と。
私「そうそう、あぁ、どこに置いたかと思ってたんよー、ありがとー」一応、シラを切った。
そこから、あれよあれよと事が動き、Pの問題解決のため病院へ行き、投薬を始め、学校での対応を協議し…
簡単にはいかなかったが、P自身が落ち着き始め、家族が穏やかになっていった。
この家族との別れから数ヶ月。
私は、「さてぇと、次は何すっかなぁ。面白いことがいいな、もう組織に入るのはヤダなぁ」なんて、
しょーもない、グダグダした生活を、事もあろうか実家で送っていた。
あれだけ退職・渡米を反対した親だったのに、私を置いてくれて、今更だが、ありがとうだ。
そんな私に、次の転機!
ある日、北海道の地方紙の夕刊をボケッと眺めていたとき。
たった数行の極小の埋め草広告記事に目が止まった。
明日夜、札幌で当時の日本での発達障害の草分け的な人が講演をするという。
「はぁ!いるんだ、日本にも!」程度の驚きで、いっちょ、行ってみっか、と軽く参加したのだ。
話を聞いていくと、日本ではそこそこ新しい話題らしく、私はアメリカで直に見てきた体験から質問が多々出てきた。
質疑応答でいろいろ興味関心から発言してからの会終了後。
講師の方が、私に近づいてきた。
「あのぉ… 貴女は親御さんですか?」
私「いえいえ、単なる興味があって来た通りすがりです」
「それにしては、いろいろご存知で… どういう経緯で?」となって、身の上を話す羽目に。
結果として、
親でもなく、当事者でもなく、第三者として関わった経験を持つ人は日本にあまりいない(当時)というお話で、
なんと、その場で雇ってくれて、いきなり翌日だったか、翌々日だったか、そのくらいの勢いで東京に舞い戻り、グダグダ生活突如終了。
その後、長きにわたって、発達障害を始めとし、関わる様々な方々と苦楽を共にしながら仕事をしていくことになった。
今となっては、地球規模で風来坊な転勤族の嫁となって、ただ家にいてボーッと暮らしているだけになってしまったが、
私のキャリアの大きな土台は、あの渡米での体験、そして長男Pの存在がなかったら有り得なかったのだ。
そのPも、何年か前に、生涯の伴侶と出会い結婚。
30歳を超え、幸せに暮らしている中、2年ほど前に、アニメと本格的コスプレが大好きな奥さんと「日本へ行く計画を立てている」と言って来たのだ。
本当に実現するだろうかと半信半疑だったところ…
昨年末、P夫婦と私のグループチャットが創設され、年明け2月にマジで日本行くだよ!と言ってきた。
私は嬉しくて飛び上がった。
オペアの私にも、日本食にも、日本にも、なーーーーんにも興味がないような様子だったPが、
人生初めての海外旅行に日本を選び、お金を貯め、時間をかけて計画を練り…そしてそして、
私の故郷、北海道の雪まつりに行くと言うのだ。
感涙ものだった。
先月、2人は2週間かけて、アニメの聖地と思しき場所など巡礼しながら、札幌にも滞在。
私の国を全身で堪能したようだった。
行くところ行くところ、食べる時は食べる時で、感動や驚きをチャットで入れてくる。
奥さんもついには、私に直接、感想や質問を送ってくる。
Pらしい独特な目線での感想には、くすぐられるような思いで笑いながら、
P夫婦が本当に日本に来たことがとても嬉しかった。
そして何よりも。
Pとの出会いが、こういった形で私に感激や喜びをもたらしたこと、
これは、父とアサヒスーパードライを山積みして喧嘩した、
あの時には想像もできなかった、ものすごいサプライズな宝物をもらった気分だ。
このご縁をずっと大切に紡いでくれた、あの子達の母親も、今では姉妹と呼び合うようになり、
互いに年齢を重ねてきたことを感じながらも、日々の交流が続いている。
このご縁がずっとずっと、先まで続くようにと祈る日々である。