みんみん蝉が鳴き始めた。


夏がやってきた。

 

自然の近くで暮らしていると、今日から季節が変わった、という瞬間に遭遇する。

 

自然はグラデーションで、行きつ戻りつして進むように見えるけど、確実にこの日から変わった、もうその前には戻らない、というポイントがある。

 

たとえば、春の雨が続いた後、一斉に蛙が鳴き始めた時とか。

 

びっくりするほど、突然一斉に鳴き始める。


初めて聞いた時は本当に驚いた。え、何、急にって。

 

みんみん蝉もそうだ。

 

しばらく続いた雨や曇天から一変、青空になったその日。

 

朝早い時間はひぐらしが鳴いていたけれど、そこからみんみん蝉に取って代わった。


昨日まで鳴いていなかったのに、と感動する。

 

そういう瞬間を感じられるのがうれしい。


ちなみに、蝉のことを調べていたら、ひぐらしは、暑さや乾燥に弱く山間部に多いとのこと。


この辺りはきっと居心地がいいんだろうな。


わたしはひぐらしの鳴き声が好きだ。物悲しくて、郷愁を誘う。

 

以前は、自然をただ静かなものとして見ていたけど、それは自然を静止画でしか見ていなかったから。


自然の中に生きていると、その力強さに、圧倒される。恐ろしくさえある。


草も木も、虫も鳥も、数えきれない命で溢れている。


命が次々と生まれて、生きて、土へ還る。

 

日々ドラスティックに、淡々と、容赦なく進んでいく。


不可逆。


元には戻らない。


進むのみ。



わたしたち人間も例外ではない。自然の一部なのだから。



95歳の祖母に病が見つかり、もうそんなに長くないことを告げられた。


突然のことに驚いたけど、年齢的に見ればしょうがない。どこかで覚悟していたからかそこまでのショックはなかった。


すぐに帰省した。


兄弟2人と一緒に祖母に会いに行き、昔話を聞いたりして、楽しい時間を過ごすことができた。


今は病院からケアホームに移り、快適に過ごしているらしい。


最近電話したら、ごはんが美味しくて、スタッフの方たちは優しくて、近くに住むひ孫がやしゃ孫を連れてやってくるのを嬉しそうに話していた。


痛みもないと言っていた。


良かった。


余命宣告されても、そんなのぶっちぎって長生きする人はたくさんいるから、祖母もそうなることを願っている。


ただひとつ、ふとした時に悲しいのは、祖母はもう自分の家には帰らないんだなということ。


祖母自身がそれを望み、快適に過ごしているのは嬉しいことだけれど、子どもの頃から、ずーっとそこにいた人が、もういない。


物心ついてから、半世紀近く当たり前だったこと。


玄関を開けて入ると、大抵台所にいて、所狭しとご馳走を並べていた祖母。


お煮しめやお漬物、お刺身、お吸い物、お赤飯や豆ごはん。美味しかったなあ。いつもたくさん用意してくれていたから、みんなでタッパに入れて持ち帰った。食後の紅茶には、ブランデーを入れると美味しいよと言って、入れて飲んだ。


いつまでも続くと思っていた。


でも、そうじゃなかった。


あの家に行っても、出迎えてくれる祖母はもういない。


祖母の手料理を食べることはもうない。


そうか、、あのお煮しめを食べることは、もう二度とないんだな。


ちょっとだけ涙が出た。


いつまでも続くと思うような繰り返しの中で、決して戻らないポイントを過ぎてしまったのだ。


これが最後だよ、と誰も教えてはくれぬまま。


するりと過ぎ、気が付かぬまま終わる。


そしてもう戻らない。



今手にしているもの、今目の前にあるもの全てに終わりがある。


そのことに気づいてしまったら、人生は一瞬だ。


全てがきらきらと輝き、美しい。


一音一音の蝉の声が、心に沁みる。



もう戻らないことを嘆いている暇はない。


そうしている間にも刻々と移ろいゆくのだから。


今、生きていること、会えること、話せること、それがどれほど有難いことか。


電話で、わたしがここまでやってこられたのはおばあちゃんのおかげだよ、感謝していますと伝えた。


そんなこと言ってもらえてうれしい、と言ってくれた。




朝日に照らされる湿原。

空は曇っていたのに、雲の切れ間から太陽の光が差していた。

この世のものとは思えない神々しさだった。

自然の中に生きていると、同じ時は一瞬たりともないということを常に見せつけられる。

この景色にはもう二度と出会えない。

だからこそ美しく、心に迫る。


ことり