武野紹鷗の花押

戦国時代の堺の豪商、茶人。1502年、大和国吉野郡で生まれる。

父の名前は武田信久。信久は各地を放浪の後、武田が

下野したという意味合いで武野に改姓した。
 紹
は若い頃から学問を好んだ。三条西実隆に師事して和歌を

教えられ、朝廷に献金を行ったこともある。この献金への報い

として因幡守に任ぜられている。紹鴎は連歌師をしていたことも

あったとされる。紹は、実隆から教わったこの思想を、

茶道にも取り入れてゆくこととなった。また紹鴎は実隆より、

藤原定家の詠歌大概之序を伝授され、そこから茶道の真髄に

目覚めたという。紹は、4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の

茶室を考案して侘敷(わひしき)と称した。4畳半以上の茶室を

寂敷(さひしき)と区別して称した。

後に千利休は侘敷と寂敷との区別を曖昧にしたことから、

わび・さびの意味合いにおいて、深い混乱を生じさせる事になった。
31歳の時に出家し、紹
と号する。大徳寺の末寺である

南宗寺に参禅。大林宗套より嗣法し、一閑斎と号し、大黒庵主となる。

茶道については、最初は藤田宗理に師事して、その後、

十四屋宗陳・宗悟からも学んだのではないかと推定されている。
の茶湯は、千利休、津田宗及、今井宗久に影響を与え、

彼らによって継承された。特に利休は術は紹、道は珠光よりと

説いており、これによって紹の名声が広く知られることとなった。

晩年は、従五位下因幡守に叙された。

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