大友義統の花押
戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。
大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。
1588年2月に秀吉に謁見するため、上洛。秀吉から非常に
気に入られたとされ、に豊臣の姓を下賜され、さらに、
秀吉から吉の1字を与えられて義統から吉統へと改名した
黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の
洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けていたが、
6月に発令された秀吉の棄教令により、棄教した
1593年、平壌城の戦いで明の大軍に包囲されていた
小西行長から救援要請を受けたが、行長が戦死したという
誤報を信じて撤退し、鳳山城も放棄した。ところが行長は
自力で脱出したことから、吉統は結果的に窮地の味方を
見捨てた格好になった。これが秀吉の逆鱗に触れ、改易となった。
吉統は1610年に死去する。享年53。
大友家は嫡男義乗が3300石の旗本として徳川家に召抱えられ、
鎌倉以来の名家として高家として続いた。
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