五月雨登校を入れて5ヶ月目に入った。(その内1ヶ月半ぐらいは夏休み)
私の中で不登校を全肯定する気持ちはまだない。けど全然気持ちは楽。ぴやっぽー。
一昨日次女と一緒に夜お散歩に出かけた。
次女は現在籍を置いている一貫校の中学の友達の話をずっとしていた。
楽しい事もイラついたことも最後に会ったのは1ヶ月前ぐらいの話でまだまだ鮮明な思い出だ。
中学の友達とは最近連絡を取っていないらしい。
学校を休んでいるから気まづいと言っていた。
でもまたいつでも連絡をすれば会えるし遊べると思っている。
いつか次女本人が気付く事だから敢えて私から言う事は今もこの先もないけれど、
学校で知り合った友達は学校に行かず会わなくなって連絡も取らなくなってしまえば、どんどん学校に行っていた時と同じ形の友達ではいられない。
卒業で会わなくなっても似た様な事は起こるが何年も時間を共有した仲間で一緒に卒業を迎えたならまだいいだろう。
だから小学校の時の親友2人とはまだ繋がっている。
でもその小学校の親友達にもそれぞれ新しい学校で時間を共有している仲間がいる。
だから今会おうとなっても2ヶ月に1度の頻度だ。
学生のうちは同じ学校で過ごしたり同じ部活で過ごす子と出掛ける方が共通の話題もあり学校に行っている子からしたら、まずそういう相手と遊ぶだろう。
約束も話題の流れからしやすいしね。
同じ趣味を持っていれば違うだろうが何より同じ時間を共有している仲間は強い。
同じ小学校の親友も公立に進学した友達は来年は中3で高校受験もあるしさらに会えなくなるだろう。
高校進学したら新しい仲間ができるし、もっと会わなくなる。
次女が何年も今のままの生活をしていけば、きっと遊ぶ子はどんどんいなくなる。
次女が学校から逃げ、家に閉じこもって友達と会わなくなればなる程思い出は美化され、友達にむかついたりした事も忘れ恋しくなるだろう。
その間次女の好きな友達達はクラス替えや学校のイベントで新しい仲間とどんどん知り合い新たな出会いに喜怒哀楽し仲を深めていく。
次女自身、今は自ら連絡をしない選択が出来ているが、この先どんどん連絡は出来なくなっていくんじゃないかな。
可哀想だが、それが人生を先に生きている私の知っている現実だ。
学校に行く辛さを手放す代償は大きい。
取り戻せない信頼や時間も友情もある。
それは大人が1番心配している「勉強」なんかよりも子供からしたら大きな損失ではないだろうか。
特に友達が好きで相手の特別になりたいと願うタイプの次女からしたらね・・。
幼さ故そんな事今すぐは気づけない。
大人で1年立ち止まるのと子供で1年立ち止まるのは全然違う。
子供の時にはその時その人たちとしか経験できないイベント事などが盛りだくさん。
修学旅行、文化祭、体育祭、遠足。いーっぱい。
気にならない!行きたくない!タイプなら良いんだけれども。
どうしてもやり直しがきかない事もある。
どうか次女がそれに本気で気付いた時、どうでもいいと思えるぐらい新しい何かがあればいいなぁ。と願う事ぐらいしか私には出来ない。