先日、キョンキョンのライブビューイングに行ってきました!


ライブに行きたかったけど、チケット取りそびれてがっかりしていたら、なんと、映画館でライブビューイング決定とのこと。


今回は誰も誘わず、1人で行くことにしました。

当日、会場に行くと映画館の前は中年のおっさんだらけ。女性も思ったより多かった。

ほぼ同世代🤣


最初は昔のヒット曲ばかりで、本当に懐かしかった。

「ヤマトナデシコ七変化」

「スターダストメモリーズ」

「艶姿なみだ娘」

「迷宮のアンドローラー」

中学生の時に聞いてたの思い出して、あの頃に戻った気分🥰

しかも全部歌詞覚えてて歌えるし🤣


なんで、こう昔の歌って今も歌詞見なくても歌えるんだろう。。


60歳になったキョンキョンは60歳のままで、堂々としていて、確実に昔の若い小泉今日子とは違うけど、こんな60歳の小泉今日子もいいでしょ?と言っているようで、とっても素敵なキョンキョンでした。

すごくエネルギーもらいました。

私も60歳まで、あと4年。

昔の自分とは違う、荒波乗り越えここに立ってるぞぉ!と堂々とメンタル最強な60歳目指して頑張っていきたい!


キョンキョンの曲で大好きな

「あなたに会えてよかった」

この曲が流れていた頃の私とはまた違う、今の自分でこの曲を聴くと、なんだか重みが違うんだよなぁ。。


ライブビューイングだったので映画館は盛り上がってたわけではないけど、、

同世代、それぞれが若い頃を思い出し、今のキョンキョンの魅力に心奪われた中年男性、女性は多いのではないかな。。



父はもう1週間ほど、ほとんどしっかりとした食事をとれていない。

痰が増えて苦しくなるからという理由で、脱水状態でも点滴はしないまま。
――これはもう肺炎の末期で、父の最期が近いのだと感じていた。

私は妹に、「お父さんはもう死期が近いと思う。泊まり込みで一緒に見ていたほうがいい」と伝えた。

 

妹が泊まりに来たその夜、父は夜中に手足をばたつかせ、酸素カップを何度も自分で外してしまった。
外れるたびに酸素濃度は65まで下がり、慌ててつけ直しても、少し目を離すとまた外してしまう。

痰も異常なほど多く、苦しそうで、必死に吸引器で痰を取ってあげた。
ほとんど眠れない夜が続いた。

 

翌日、妹の主人も来てくれた。父はとても喜び、少し笑顔を見せた。
義理の息子を可愛がっていた父にとって、嬉しい時間だったと思う。

彼は父の手を握り、「お義父さん、また明日来るから、絶対に頑張ってよ」と涙ながらに声をかけて帰っていった。

 

その夜も、酸素カップを外してしまわないよう、妹と交代で見守ろうと話しながら、夕食をとろうとしていた。

ふと父を見ると、穏やかに眠っているように見えた。
念のため酸素濃度を測ると、65。

「え…?」
酸素は最大の6ℓ入っていて、カップも外れていない。それなのに65。

慌てて脈をとると、ほとんど感じられない。
父は苦しそうな様子もなく、ただ眠っているようだった。

妹と二人で「お父さん!お父さん!」と何度も呼び、体を揺すっても、呼吸はしているものの返事はない。
パルスオキシメーターは、脈も酸素も異常な数値を示していた。

 

――母の時と同じだ。もうダメかもしれない。

 

そう感じた。

妹に「もうダメかもしれない」と伝えると、妹は泣きながら何度も「お父さん!」と叫んでいた。

そしてついに、脈は消えた。
胸に耳をあてても、心臓の音は聞こえなかった。

 

父は静かに息を引き取っていた。

 

あれほど痰が多く、苦しそうにしていたのに、最期の顔はまるで眠っているように穏やかだった。

その後は深夜にもかかわらず、訪問看護師さんが来てエンゼルケアをしてくれ、葬儀の手配などで慌ただしい時間が続いた。

 

私の家族はもういなくなってしまった。
本当に一人になってしまったのだと実感した。

 

認知症だった母の介護、そして父の介護。
15年続いた在宅介護の生活が、これで終わった。

40代から今の55歳まで、15年もの間、介護をしてきたことになる。

本当に大変で、つらい日々も多かった。
でも最後までやりきった。

だから今は、そんな自分を少しだけ、褒めてあげたいと思う。

 

3月、父が88歳になり、米寿のお祝いをした。

妹が手作りのケーキ🎂を用意してくれた。寝たきりの父がリビングまで来られるか心配だったけれど、その日は不思議と体調がよく、頑張って起きてきてくれた。そして、テーブルを囲んで一緒にケーキを食べることができた。

妹が「88」と書かれたパーティーグッズも用意してくれて、それを父に持たせ、私と妹と三人でケーキの前で写真を撮った。

父は「幸せだなぁ。ありがたいなぁ」おねがいと何度も言い、とても嬉しそうにしていた。


――これが、家族で撮った最後の写真になってしまったショボーン


米寿のお祝いから一週間後、父の食欲は急に落ちていった。


ヘルパーさんが用意してくれた朝食も、帰宅すると手つかずのまま残っていた。

なんとか食べてもらおうと、バナナやみかんなど口にしやすいものを用意した。父も少しは食べようとするのだけれど、「もういらない、食べられない」と言って、すぐに横になってしまう。

食べられない状態が続くのはさすがに心配で、私は仕事を休み、父の介護に専念することにした。


訪問診療の先生からは、「肺炎を起こしているかもしれない」と言われ、採血の結果によっては入院も検討しなければならないとのことだった。

父にその話をすると、「入院はしたくない。家にいる」と強く拒んだ。
そのため、私は一週間仕事を休み、家で看病を続けることにした。

その後、肺炎は悪化していることがわかり、自宅で訪問看護師さんによる抗生剤の点滴を受けることになった。
その頃には、父はもうベッドから起き上がることもできないほど弱っていた。

看護師さんからは、「脱水もあるので点滴をすれば少し元気になるかもしれません」と提案されたが、担当医からは「痰が増えて気管に詰まり、かえって苦しくなる可能性がある」と言われ、見送ることになった。


実際、食べられなくなってから父の痰はとても多くなり、見ていてつらそうだった。

そんな中、あるとき父が、かすれるような小さな声でぽつりぽつりと話し始めた。


「若いころは鉄板を運んでたんだ。だから足腰が丈夫になった。博打やパチンコもよくやったな……。おかあちゃん、よかったな……。よく俺のところに来てくれたよ。金もなかったのに……。子どものことでよく喧嘩したな……。俺が全部悪いんだ。お母ちゃんに苦労かけた。俺が悪いんだ……。」


私がやっと聞き取れるくらいの、小さくしぼり出すような声だった。

そしてその翌日、父はもう声を出すこともできなくなった。
何かを伝えようとしているようだったけれど、その言葉を聞き取ることはできなかった。