いま私たちが生きている時代は「激動の時代」とよく言われる。私もそう思う。今年、長年勤めていた国家組織を辞め、新しい挑戦をしている私に対して、「安定した仕事を辞める決意によく至ったね」と尋ねる人が多いが、私は決まってこう答えている。「これだけ社会が大きく変化しているからこそ、自分も変化しなければいけない。変化しないことこそ停滞でありリスクである」と。

 一方で、冷静に過去を振り返ってみれば、いつも「いまは激動の時代だから」と周りの大人たちは言っていたような気がする。人間は、自分が生きている「現在」を忙しい時代と捉えがちだ。しかし、二十年、三十年も経てば、実はあの頃は政治的、経済的、社会的に安定していたよねと懐かしむこともよくある。

 だから、いまが本当に「激動の時代」と言えるのか問い直さなければならない。社会がどれくらい、そしてどのように変化しているのかという情勢分析は、あらゆる意思決定の前提になる。全能でない人間のことだから、見誤ることもあろう。しかし、情勢分析の誤差をいかに小さくするかどうかで、個々の生き方に差がつくのだと思う。

 

 私が仕事上ずっと追ってきた国際関係には、「安定」という言葉はなかなか使いにくい。紛争、政変、大災害は毎年どこかで発生するし、前年には想像も出来なかった出来事が連続して、歴史のうねりを作っている。

 歴史は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」であるが、私たちが問い続けるべきは、その流れが良い方向に向かっているかどうかだ。

 実際、科学技術が進歩して、人々の生活が便利になっているように思える一方で、現代人が数世代前の人より幸せを実感しているかというと、必ずしもそうでもないだろう。そして、戦争、飢餓、疫病、テロで亡くなる人間は大きく減らない。果たして、人間の歴史は進歩していると言えるのか。本ブログは、この究極の問いへの答え探しの旅でもある。

 

 世界の歴史は、カント的社会観が強まる時代と、ホッブス的社会観が強まる時代が交互に顔を出す「振り子」運動のようである。過去1世紀だけでも、帝国主義、軍拡が2つの大戦につながる「力の時代」の後、二大国が睨み合うも協調が基調の「理性の時代」が続いた。しかし今世紀に入ってからは「新帝国主義」的傾向が強まっている。歴史を作る人間自身には「攻撃本能」「愛」という2欲、「交感神経」「副交感神経」の2神経があり、バランスをとるのが難しいゆえなのかもしれないが、いつまで同じような歴史を繰り返さなければならないのだろうか。

 国際関係の中長期的安定のためには、「国際協調主義」、「法(理性)による支配」が望ましいのは自明であるものの、残念ながら、内向き、一国中心主義、ナショナリズム、「(暴)力による支配」に傾きがちなのが2021年現在の様相である。人間は神ではないにせよ、ごく短期間で、この惑星の圧倒的な支配者になることのできた優れた知性、理性をもっているわけだから、なぜ、この武器を上手に使わないのだろうか。それとも、この「振り子」運動は、元の位置で前後左右に揺れているだけではなく、支点じたいが適当な方向に大きく動いていると言っていいのだろうか。私たちは、人類の将来に明るい希望をもってよいのだろうか。