当たり前の事が実は1番大切で、
幸せなのはあの日を境に身に沁みました。

家族を失った方、家を失った方、生活を失った方、この全てを失った方もおられます。

地面から突き上げられる凄まじい揺れが長く、家がぐらんぐらんと揺れて立って歩けない

やっと揺れが収まった後


一瞬の静寂



その後一斉に悲鳴が
あちこちから聞こえ



家の中がめちゃくちゃになり、ともかく寒かった記憶、そして朝 6時前に親戚から電話があり安否の確認がとれたこと(この後混線で電話は全く繋がらなくなりました)。
今考えても奇跡的な電話です。


2件隣の方が生き埋めになり、みんなで救出しましたが既に意識も呼吸も無く、軽トラに布団引いて乗せて運ばれて行きました。

その時確か震災発生からまだお昼になってませんでした。

そうこうしてると、ガスタンクからのガス漏れのおそれがある為避難せよと、放送か役所の車から拡声器だったかがあり。

全壊した祖父母が住んでた実家から、急いで毛布や衣類をまとめて準備してると、ガス漏れの恐れあるのに、道路で平気でタバコ吸ってるオッサンが脳裏に焼き付いてます。

着の身着のまま一時避難した学校は倒壊の恐れで立入禁止に。
グランドに出され、学校周辺の壊れた他人様の家から木材を拝借して焚き火で暖をとり、祖父母を毛布で包んでいると、何と無情にも雪が降って来た。

夕方にかけてどんどん気温が下がりこのままだとマズイと判断、祖父母を車に乗せようとしたら、ラジオでガスタンクの漏れは無く避難解除のことで家に戻ることに。

ここから狭い家での被災生活が始まった、ライフラインは全てなし。

水は道路の破裂した配管から汲んで、石油ストーブで沸かし、昨夜の残り物を家族6人で分けて何とか凌いだ。

もうひたすら寒い中寝るしかない、今思うと幸い周りで火事が無くて良かったです。

屋根の下で寝れたのは今となっては幸いでした。


結局電気が復旧するのにひと月(神戸市で1番遅く復旧)

まさか飾りで買った古いランプで生活
するとは、辛く長いひと月でした。


現実は上手く行かない、
あれから25年も過ぎたのか。

阪神大震災で祖父母は家を失い、しばらく仮設住宅で生活。

祖母は大病の後だったこともあり、体調をさらに崩し、数年後元の実家跡に出来た復興住宅へ戻るも、環境変化に耐えられなかったのかどんどん老衰して寝たきりになってしまった。

その後祖父母が亡くなり、
あっという間に歳を喰いました。

母親も大病を患ってしまい。

私自身も30歳で身体を壊してしまいました。
体力が続かずまともに仕事に就けないままこうなってしまったのがイケないのはよく分かっています。

ようやく体調が安定するのに約10年かかりました。。。

阪神大震災と就職氷河期どストライク世代。
私自身、卒業後就職した先でしばらくアルバイトさせられ、いつになったら正社員になるのか??
待てど暮せど最低賃金のまま。

結局その会社は数年後に倒産。
あれから職を転々としないといけなくなり結果今に至る。

同期で立●●大学出たのに就職浪人したもの。近●大学出てフリーター、自称パチプロ…そのままどうなったのか定かでは無い知人も居ます。


今更ながら世間様に莫大な給料をくれと言ってる訳では無く手取り2●万円でいい…決して贅沢は出来ない金額。

現実は厳しい、このままでは後にやってくる両親の介護費用とかが払えない。

昨年10月からいきなり給与が不安定に(現実下がった)なり予定していた結婚も、小さな家の購入も話しはストップ。

あの時に比べれば…
ですが現実は厳しい。


あれから25年
失った物の多過ぎる阪神大震災が無ければとつくづく思うのは。

祖父母の庭に春から初夏にかけて咲いていたとても沢山の薔薇が見れなくなったこと。

あの薔薇は本当に綺麗でした、失ってから気付く大切な物…

結局ああいうものが大切何だと歳をとってから分かるようになるのですね




とりとめのない文章
悪しからずご了承下さい。