倒れてから・・・ | 脳梗塞と民話語り

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よう来なすったなあ~、ゆっくりしてきなっせ~





月・火曜日はブログ定休日だよ、

リハビリ専門病院に転院して行った

   夢も希望もないままに・・・・車いすで運ばれ(自分で操作したのでは遅いので)

 

リハビリの時間になってもベットの中

   どうせ良くはならないんだから、リハしたって仕方のないことなんだと諦めていた

 

何日かそういう日が続いた

   そしたら、同じ部屋の(6人部屋)人がリハから帰って来て

 

私の枕元に来て言うんですよ

  「寝ていて面白いかい」ううんって首を横に振ると

 

「だろうなぁ、リハビリやっても面白くねぇもんな、

    だけどね、リハ室に行くと、友達は沢山いるし、言語が出来ない人もいるけど

       話が出来ないのに、結構楽しくやっているよ」って

 

それでも、一緒に行こうよとは言わなかったんですね

   そう言う事が何回かあって、自分からリハ室に出向いてみると

 

なんと、皆さんたちの表情

   生き生きとしていて、楽しそうなんですね

 

一人の人が

  私のそばに、ピョコタン歩きながら来てくれて

     車いすを片手で押してリハする場所に来て「一緒にやろう」って言ってくれた

 

気乗りはしなかったが

   言われるままに動かしていたら、リハの先生も来てくれ始まったんですね

 

痛くて辛いけど

  終わった後、何と言ったらよいか分かりませんが

 

何もしないで

  ただベッドにいただけよりも、心が充足したような・・・そんな気持ちになりました

 

それからは

   その人が部屋まで迎えに来てくれてリハ室に通うようになりました

 

不思議なものでやる気になると、

   車いすから4点杖・から普通の杖になるまでにそんなに時間はかかりませんでした

 

杖をついて歩けるようになると

  一階から四階までスロープになっている場所があるのですが

 

そこの上り下りを

   暇な時間があればするようになりました

 

もちろん装具は外せませんが

   何しろあるれる嬉しさで、夢中で歩き続けました

 

お陰様で

  かっこよい歩き方ではありませんが(今でも花魁道中のような、右足は弧を描く歩き方)

 

しかし、言語の方は良くならない

  自分の意思が伝わらないと言うのは、結構なストレスになってきますね

 

10ヵ月も過ぎたころ

   先生に聞いたところ、前の病院で聞いてなかったんですかと

 

じゃー治らないんでしたら退院します

   そう言って、退院してきたって、どこに行く当てなどありませんよね

 

家でほとんど引きこもり状態ですね

   チャイムが鳴ると、人に会うのが嫌で押し入れに隠れてしまうほどでした

 

テレビが友達の様に

   毎日毎日、1日中つけっぱなし状態でした

 

ある日の事

   ドキメンタリーの番組で、岩登りしていた人が滑落して片方の足を切断

 

義足を付けてリハビリをし、再び山登りをした

   また、別の人はスカイダイビングで、仲間の人6人でチームを組んで飛び降りました

 

降りて行く途中

   仲間の人同士ぶつかり合って、一人の人は死亡、もう一人の人は両足切断の大怪我

 

その人も両足義足を付けて

   辛い辛いリハビリにも耐えて、再びダイビングをしました

 

それを見た時はショックでしたね

   両足を亡くした人が、そこまでやるのに、俺は話こそできないが片手足は健在

 

なのに、

  へこたれていて、何もしようとはしない・・・・・

 

それで自分の気持ちが吹っ切れたのかも知れません

   リュックの中に、1キロの砂袋と500ミリリットルのペットボトル2本入れ

 

歩き始めました

   それが続くと、足に500グラムの重りをつけ歩くようになりました

 

その間、話し方教室に言葉の練習に通い

   話せないのに話し方教室と思うでしょうね・・・

 

そうなんですよ

   教室には、健常者ばかりですから

 

私が3分スピーチをすると

   言葉にならないから面白いのでしょうね、下を向いて笑いをこらえていましたね

 

そんなことなど構わずに

   俺は俺の道を行くではありませんが4年は続きましたね

 

人前で話をするって

   結構な緊張感があるでしょう・・・それが良かったのだと思いますよ

 

徐々にではありますが

   聞き取れるようになってきたんですね

 

母ちゃんがスーパーに出かけるとき

   一緒にくっついて行って、スーパーにつくと運転席に座ってアクセル踏む真似

 

ハンドル回す真似

   ブレーキを踏んでみたりしていました

 

そんなある日

   母ちゃんが車を運転したいのかって聞くから・・・・もちろんさと言った

 

善は急げと

   ディラーに行って車を買っちゃいました

 

そこで、県主催のシルバー大学なるものに入学

   そこで民話と出会い、言葉のリハビリと思ってカラオケクラブにも入りました

 

民話の先生が私を連れまわすのです

    先生の前座をやらせられました、つまり私は広告塔だったわけですね

 

私を連れて行けば

   こういう人も私は教えているのよって

 

お陰様で、出演すればするほど

   見る見るうちに言葉が回復していきましたね

 

今では民話を教えるまでに言葉も回復しています

    現在学校のクラブを入れて、6カ所民話を教えに行ってます

 

公演の数も年間40回か50回

  話せるようにはならないだろうと主治医に言われたけど20年が過ぎて話せるようになった

 

車の運転も

   今の計画では全国走破は再来年までには実現しそうです

 

まだまだしたい事が沢山ありますが

   あと10年・・・・・きついかなあー・・・でも、10年出来るように体力を落とさず運動する

 

20年が過ぎ

   21年目に突入するのは、あと5日ですね

 

25年・・・30年と元気を保って

 

   運転も・・旅行も・・・・民話も・・公演もしていけるように・・・・・