三聖金鱗の話 提唱

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ご無沙汰しております。

先日、港区愛宕青松寺で晋山式が執り行なわれました。

新命方丈様も大変立派で、これからのご活躍が期待されます。

 

私も西堂の大役が無事勤まり、安心しています。

本則提唱で、第三十三則 『三聖金鱗』について話した内容を皆さんにもご紹介しますね!

 

時は西暦八百七十年頃、中国が唐から梁に変わろうとする時代、福建省 鳳凰山にある雪峰寺での、三(さん)聖(しょう)慧(え)然(ねん)禅師と、雪峰義存禅師との法戦の一コマです。三聖和尚は臨済義(ぎ)玄(げん)禅師の第一の弟子で新進気鋭の若大将、雪峰和尚は雪峰寺の開祖で、千五百人の修行僧を率いる円熟のベテラン僧侶とでも言いましょう。
雪峰和尚の噂を聞きつけた三聖和尚は、どれほどのものか一つ試してやろうと門を叩きます。『網を透る金鱗、そもそも何をもってか食と為す』三聖和尚は、我輩は、五欲六塵の煩悩の網をぶち破ってきた黄金の大魚だ、何を食べればこの様な存在になれるか、答えてみよ、と問います。天上天下唯我独尊といった態度に、雪峰和尚は『汝が網を出てくるを待って汝に言わん』まだそんな禅道仏法の網の中にまごまごしているのか。そのような者に何を言っても通じん、その囚われの網を打ち破って来られたら教えてやろう。と返します。『一千五百人の善知識なるに、話題すらも知らず。』なんだ、千五百人の弟子を抱えているが、問答の仕方も知らないのか、と三聖和尚が挑発します。それに対し雪峰和尚は『老僧は住持にて事忙し』と受け流します。雪峰和尚がころりと態度を変えたところの神通妙用で、三聖和尚は“のれんに腕押し”と拍子抜けしてしまいます。あたかも雲を呼び雷を起こし、龍となって昇天する滝登りの鯉のように、荒々しく勢いのある三聖和尚と、千軍万馬を経てきた老将の如く円熟し、血気盛んな強者に相対しても恐れることなく、時にひらりと身を翻しながら、不動の存在感を放つ雪峰和尚。これは『強に逢うては即ち弱、柔に遇うては即ち剛。両硬相撃てば、必ず一傷あり。しばらくいえ、如何が廻互し去らん』即ち、殺すべきに殺し活かすべきに活かす、されど、どちらにも傷がつかない、負け勝ちがない、という、巧妙に相手の腹の内を探り合いながらの、まさに名人同士の法戦です。
実は、この話しの中には我々が現代を生きるための大きなヒントが隠されています。高僧同士の問答には言葉があって無いようなもの。 相手の一挙手一投足、息づかい、仕草、表情、更には気を読んで言葉の裏に隠された真意を探る戦いです。それは人間の五感では測れない第六番目の感覚、直感です。直感とは、五感から得た情報を頭で処理する、即ち「思考する」のではなく、五感のその先にあるものを、自分の存在丸ごとで感じる力、霊感にも通ずる力です。これは現代では失われつつある感覚です。
元来人間には霊感が備わっていました。大自然の声、魂の声に耳を澄まし、その導きに従って生きてきました。危険を察知して事前に回避したり、周りの状況を読んで最善の行動をとる。こうした能力が備わっていたのです。今も一部の人達がこの第六感を頼りに活躍をしています。トップアスリートが本番で実力以上の力を発揮できるのは何故でしょう?ここぞという集中から直感や感性が研ぎ澄まされて、日頃の練習で身につけた能力を上回るパフォーマンスを可能にするのだと思います。将棋のプロ棋士も、相手の手を読むのと同時に、その表情、仕草、息づかいまでも情報として取り入れ、相手の気を読んで、勝負に出るタイミングを計る訳です。優秀なビジネスマンも、多くの経験から第六感が研ぎ澄まされ、対人関係に於いても相手の力量を見抜き、商談の中から重要な情報を判別し、ビックビジネスに繋げて行きます。世界各地に点在するシャーマンの居るような
原住民族は、文明社会から遠ざかり、その土地と同化し、自然界からのエネルギーを感じながら固有の文化を築き民族を守ってきました。           
私事ではありますが、静岡県の海を望む地に生まれ育った私は海が遊び場でした。海と生活を共にし、魚と戯れる、そして漁師に紛れて漁を学びました。物心つく頃には自他共に認める天才釣り少年と讃えられました。私には、釣り糸を垂れただけで海の中の様子が手に取るように分かり、魚の気配を感じられる不思議な力が宿りました。社会に出て、ITのエンジニアの道を歩んでも、海で培った自然界の摂理からは、ほど遠い現代文明に違和感を覚えずには居られませんでした。出家を思い悩んでいた四十才を過ぎた時、現役最後の釣行となった高知県柏島遠征で信じられないことが起きたのです。その海域では生息が確認されていない幻の巨大魚、カンナギとの格闘でした。カンナギとはマハタの老成魚、体長185cm、体重100kgにも及ぶ、年齢80才を超える太公望憧れの巨大魚です。私の釣り人生全てを掛けていた幻のターゲットに出会えたのです。絶対に釣れないと言う地元漁師を口説き落とし船を出して貰い、一計を講じて、普通大物釣りには使わない細い仕掛けを用いたものでした。釣りと言うよりは格闘でした。やるかやられるか、命がけでした。釣り上げられる確率は0.01%も無かったでしょう。一時間を超える死闘の末、大きな魚体は力尽き、遙か深海より浮上したのです。

今思うと全てが見えない力の導きによって為し得た偉業です。しかしそれは、思い悩んでいる私を出家の道に導く為の、まさしく「お告げ」でした。そのカンナギと姿形が全く同じ魚(ほ)鼓(う)が、なんと龍穏寺の庫裏に祀られていたのです。その魚鼓にはある逸話があります、龍穏寺がまだ修行道場だった大正二年、七堂伽藍を全て焼失した時、魚鼓にも炎が燃え移りました。天上から落下した魚鼓は自分の体に燃え広がった炎を消すために自ら坂を滑り落ち庭の池に飛び込んだのです。それ以来、龍穏寺では『生きた魚鼓の伝説』として語り継がれています。その魚鼓を見たとき背筋に冷たいものが走りました。魚鼓の化身となったカンナギが自らの命を捧げてまでも、私を出家の道に導いてくれたのです。魚と対話できる能力を持った私に一番解りやすい方法で伝えてくれたのです。『迷いを捨て出家せよ』と。                      
いま人類は状況判断力と危機管理能力が問われています。周りの空気や、相手の立場に立った、臨機応変な行動がとれる。本物と偽物を見極める。嘘に騙されない。危険なものに手を出さない。また自分に訪れた好機を逃さない。など、第六感を働かせてこそ、あるべき言動へと導かれるのではないでしょうか。第六感、直感とは、分析的な理由付けをせずに決断を下すことが出来る脳のプロセス、物事や対象の本質を捉える認識能力です。
しかし急速に科学が進歩し、アナログからデジタルそしてIT文明、更にはAI新時代を迎えた昨今、我々人間は第六感は疎か、五感さえ衰えを見せています。ディスプレイの普及により視力は低下し、大音量のデジタルサウンドで耳は難聴となり、大気汚染、アレルギーで臭覚は鈍り、化学調味料・食品添加物で舌は麻痺し、スイッチ一つで扱える、デジタル化された家電製品には、力加減や微調整が不要となり、手先の感覚さえ鈍らせてしまいました。そして面倒なことは全て機械任せとなり、使われなくなった感覚はどんどん退化して行きます。その結果、『転ばぬ先の杖』だった第六感が鈍り、危機予測能力は著しく低下してしまったのです。
そして我々寺を守る僧侶の直面する、お墓や先祖供養に対する人々の考え方の異変も、現代人の直感、第六感が衰えている兆候の一つとは言えないでしょうか。子孫が居てもお墓を終めてしまう。葬儀、法事は執り行なわないなど、霊魂の存在も信じていなければ、先祖から脈々と受け継がれた命の意味すらも理解していない。目に見えるもの聞こえるものしか信じない、うたかたの文明に期待し科学に頼る、命さえも科学が何とかしてくれると思い込んでいるかの様です。
三聖和尚と雪峰和尚の二人の名士が交わした問答は、言葉だけが記されていますが、その場に居ればきっと二人の全身から、ただならぬ気が発せられ、それがぶつかり合うことなくお互いに第六感を働かせ、潮時を読んだのだと思います。我々僧侶が毎日行っている修行とは、即ちこの六つの感覚を養うものです。大自然の摂理に触れ、そこに自らが身を投じる。時に感動し、時に危険にも遭遇する。そうして潜在能力を駆使して生き抜く智恵を身につけていく。その体験から得た智恵が人々を正しい方向へ導いていくわけです。世俗の垢にまみれてしまえば目も濁るというものです。
かつて曹洞宗の寺院で修行した、アップルの創始者、かのスティーブ・ジョブズは、“Don`t think 、feel”考えるな、感じろ、と言う言葉を好み、次のような名言を残しています。『心や直感は、すでにあなたが本当になりたいものを知っている。それ以外は二の次だ。最も大事なことは、自分の心、直感について行く勇気をもつことだ』と。
見えざるものを見る力。見えざるものを信じる力。実際、医療やスポーツ、訴訟、法律にまつわる司法の世界、パートナーの選択に至るまで、実に幅広い分野で、理性的判断の限界と直感の優位性が実証されていると言います。そして『自らの直感を信じるに足る“自己”をつくる』ことの大切さを、ジョブズは教えてくれているのではないでしょうか。
『煩悩の網をすり抜けてきた金鱗をまとった大魚』との表現がありましたが、今後二十年の間に人工知能であるAIが人間の知能を凌駕すると言われています。人間の知能を遙かに超えた情報量、それを選別し一つのミスもなく最善の答えを導き出す。簡単に、しかも迅速かつ確実に“黄金の大魚”を得られるわけです。しかしそれは知能という見えない透明な網の中のこと。その網に捕らわれていると言うことに人類は気づいていません。科学万能主義から獲得された知能は、世の中の濁り、諸刃の剣であることを忘れてはなりません。知能という網の外にある、本来人間にとって最も大切な『黄金の龍』を見失ってはなりません。水が濁って見えなくなる前に。
明日の首座法戦式が人類の英知とも言うべき『黄金の龍』へと我々を導く、文字通りの“登龍門”となることに期待を込め、提唱を終ります。