こんばんは。
久しぶりの投稿となりました。
今日も見ていただきありがとうございます。


さて、今回は少しタイムリーな話題です。そして、僕が今までで1番思いの強い記事になるとおもいめす。


先日、熊谷ペルー人6人殺害事件の最高裁判決が出ました。判決は無期懲役。一審は死刑、二審は無期、そして最高裁も二審を支持したということになります。

まず最初に書いておきたいのが、検察の求刑についてです。弁護側は一審から最高裁までまで一貫して心身喪失による無罪を主張していましたが、検察はちがいます。一審の検察は死刑求刑、二審も同じ、しかし最後の最高裁は二審の判決を受け入れ無期懲役求刑でした。

ですから、最高裁での戦いは一見検察が負けた様にも見えますが実はそうではありません。

無罪を主張する弁護側VS無期を支持する検察

の戦いですので判決が無期ということは検察が勝利したということになります。



ですからこの判決でなぜ死刑にしないのかと最高裁を叩くのはお門違いですね。
因みに本判決を下した最高裁の山口厚裁判長は刑法のスペシャリストで本を何冊も出版されています。本当にわかりやすいのでそちらも是非読んでみてください。



さて、本題に入りましょう。

この判決が出た直後(高裁の破棄自判の時もそうでしたが)やはり世論からは厳しい声が多数聞こえました。何故、死刑にならないのか。被害者のことを考えろ。


精神障がい者は何故量刑が軽くなるのでしょう?その法的な根拠と私の意見を書いていこうと思います。



1、精神障がい者を減刑する根拠

この書き方だと少し語弊がありますよね。

正確に言えば、精神障がい者だから減刑されるのではなく、その犯行を行うにあたりその動機、実行に至るまでの過程に精神障がいが影響していると認められた時に減刑や無罪の処置が取られます。

この減刑措置の法的根拠は刑法39条です。
条文の引用です。

第39条
  1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
  2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

では、心身喪失、耗弱とは何でしょうか。
こちらは判例がありますのでそちらを引用しますね。

(大判昭6.12.3)
心神喪失とは,精神の障害により,是非弁別能力又は行動制御能力がない者をいう。
心神耗弱とは,事物の是非善悪を弁識する能力又はこの弁識に従い行動する能力の著しく減退した者をいう。


分かりましたか?
つまり、精神を病みそれによって善悪の判断や己の行動が全くコントロールできない状態での犯行は心神喪失により無罪、全く制御不能ではなかったが、善悪の判断、自己コントロールをする力が限りなく少なくなっている状態の犯行は心神耗弱により減刑するという事です。今回のペルー人の被告は心神耗弱にあたり、死刑→無期懲役となりました。


この条文は、昔から賛否両論あります。
賛否分かれる法律はかなりありますし、この賛否による議論こそがより良い世の中を作る第一歩であると思いますが、この件に限っては僕は反対派を批判します。彼らは法律を何も分かってないし、法律だけでなく世間も何も分かっていない。


先日見かけた意見に、このようなものがありました。

「障がい者を同じ社会にいれるのであれば、我々と全く同じ扱いにするべきだ。社会参加は求めるけど犯罪を犯したら刑が軽くなるのは不平等。この判決は障害者差別を助長する。」

皆さんはこの意見をどう思いますか?
僕はこの意見から真っ向から反対します。

理由を説明しましょう。


・社会における区別と差別

日本には、累進課税という制度があります。1番の低所得者は免除、1番の高所得者は所得の半分持っていかれます。

これは、「差別」でしょうか?
これを差別というならば、我々は年収1億の人が払う所得税約4500万円毎年支払いますか?


皆さんは払いませんよね。何故か、払えないですし払う必要もないからです。ルールで決まっていますから。

皆さんは自分が1億2億稼げずに彼らほど税金を納められないことに罪悪感を感じますか?それが悪い事だと思いますか?1億2億稼がない人を糾弾しますか?
しませんよね。だって、私たちは普通に生きてるだけですから。

刑法39条も、それと全く同じです。これは差別ではありません。必要性が十分にある、れっきとした社会的「区別」なのです。

彼らが精神障害を罹患し、そしてそれを発症する過程に何か責任があるでしょうか?ありません。まさか精神障害を根性論で治るという方はこの現代にはいないだろうと思いますが。

では、その本人に責任のない病気の症状が影響して起こる犯行は、果たして本人に責任はあるのでしょうか。

ある訳がありません。

こういう事なのです。心身喪失や心神耗弱による減刑は、こんなに分かりやすい制度なのです。

寧ろ、経済的な問題に関してはある程度努力や挑戦で伸ばせる部分はありますし抜け出せる可能性もあります。
しかし障がいはそれがありません。
突然やってきて(若くは生まれつきで)、その後治るまでずっと苦しまなくてはなりません。治らない事だって勿論あります。

皆さんが今から何億円と稼ぐ事が不可能なのと同じで、障害も直ぐにどうこうなるものではないのです。

ですから、刑法39条は全くおかしな法律ではない事がわかります。


・精神障害者に対する世間の対応


僕は精神障害の方々に対する世間の態度には物凄く腹が立ちます。

世間一般的に、精神障害者というのは社会から敬遠されます。皆さんは普段あまり意識しないかもしれませんが精神障害者への差別は今でも顕著に存在します。

ひとつ例を挙げるとするならば、例えば大きな精神病院が建っている周辺の土地の値段は相場よりかなり安くなっていたりします。精神障害者の支援施設を建てようとすると反対運動が起きたり。

駅で1人で奇声を発してる人、大声で叫ぶ人、ぶつぶつ独り言を言う人。
皆さんはその様な人を自分から遠ざけますよね。酷い時には、それを面白おかしくネットへあげる。少し離れた、ネットという世界ならば安全な地帯で嘲笑う事が出来ますしね。


昔から、何か変なんじゃないか、何かおかしいんじゃないか。そう思う人は周りにいませんか?

皆さんは精神障害者を敬遠し、世間から遠ざけ、安全な地帯からその奇行を嘲笑います。
彼らが苦しんでいる時、彼らが手を差し伸べて欲しい時、皆さんはそれを怖がり、嘲笑い、スルリと逃げていく。社会から拒絶され、敬遠され、社会との関係性を築けずに1人ぼっちになる患者は、果たして回復できるでしょうか?


彼らの犯罪の責任の一端は、間違いなく世間に存在します。彼らの犯罪を危険視するならば、彼らにもっと積極的に交流し、見守る環境を自ら作らなければなりません。ただ自分から遠ざけるだけで一体何が解決するのでしょうか?


社会の暗部に押し込み、普段の生活ではそちらを見ないようにする。でも、何かあったら口を揃えて皆さんの普段の行いを正当化するんです。

「ほら、やっぱり障害者は危ないんだ」と。



生物学上、地球上に生まれてくる全ての命には必ず一定程度障害者は存在します。皆さんが今健常者でいることは、何か勝ち得たものなんでしょうか?何か努力して備わったものですか?

皆さんが健常者として生まれてきたその裏に、誰かが代わりに障害をもって生まれてきているのです。これを忘れないで欲しい。健常者が健常者である事は、障害者に勝ち誇ったり見下したりできる理由には全くならないのです。


精神障害は、皆さんもいつなるか分からないものです。もっと主体性をもって考えて欲しい。貴方や、貴方の大切な人が精神障害を罹患してしまったとき、周りの人がどれだけ支えてくれるかは今の貴方の行動にかかっているのです。


障害を100%理解する事はできなくても、障がい者を皆さんのコミュニティの中に入れる事は十分可能なはずです。社会との良好な関係を繋げることは、病気を快方に向かわせ、ひいては障害者の犯罪を、そして皆さんがよくいうかわいそうな被害者の数も減らします。

被害者が報われないから処罰せよというなら、社会が被害者を減らすための努力をすべきです。




かなり厳しい言葉を並べましたが、精神障害者とは皆さんの想像を絶するほど辛く大変なものです。でも、皆さんを含め誰でもかかりうる可能性がある。

安易に彼らを差別せず、主体性をもって、障害者との関わり方をもっと考え直して欲しいなと思います。



そしたら全ての障害者が、そして健常者も、暮らしやすい社会が訪れるはずです。


かなり長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。