こんばんは。
久しぶりの投稿です。前回投稿時には未だ夏の暑さを感じられる日々でしたが、もうそんな季節ではなくなりました。
これからは寒さの本番。冬の訪れを感じる共に、受験生の身としては勝負の時を感じる日々です。
元々文章を書くのが大好きなので、勉強時間もこの休憩時間もずっと文を書いてることになります。不思議なことに全く疲れません笑笑
さて、今日は少し法律の話、裁判員裁判の話題を話していこうと思います。
裁判員裁判の制度はもうみなさんご存知だと思うので説明は割愛します。タイトルのもある通り、私はこの裁判員制度は反対です。
理由を説明しますね。
まずひとつ目は、裁判員制度の方針に共感出来ないからです。
皆様ご存知の通り、裁判員制度の主旨は市民感覚の司法制度への反映です。しかし、市民感覚とは本来司法に反映されるべきものなのでしょうか?
日本は立法、行政、司法という形の三権分立を採用しています。司法は違憲立法審査権を通じ、立法行政を監視する立場にあります。立法行政も最高裁長官の指名や弾劾裁判を通じて司法を監視する。ひとつひとつに役割があり、それぞれがバランスを保っているように思います。
国会=民意の暴走を止められるのは、立法権に唯一の対抗権を持つ(厳密には対抗ではありませんがわかりやすく)司法だけです。司法は、国会への意見立法審査権を通し、暴走加熱する民意を抑制する力があります。我が国のような国民主権の国の元で1番に尊重されるべきは国民の民意です。しかし、三権分立を通し司法は民意の暴走を止める役割がある。これも、最も尊重されるべき権利の一つだと思います。
裁判員制度は、この権利と役割に正面から矛盾するものです。民意を監視すべき立場にある司法に、民意を介入させるという行為は三権分立の成立を危うくしかねません。
イギリスの国会は上院下院と分かれていて、選挙で選出されるのは下院のみです。下院は民意の代表であるのは当然として、それでは上院は何の代表として存在しているのでしょうか?
わ
正解は、「理性の代表」です。イギリスは現在の政治制度が確立した段階では、裁判所は上院に属していました。この事からもわかる様に、いかなる形であれ何かが理性の代表として民意を抑制する力はとても大切なのです。
繰り返しますが、民主主義の我が国において民意は最も尊重されるべきもののひとつです。しかし歴史上、民意の暴走を止められず、数々の争いがかつて起きてきたのもまた事実なのです。
イギリスにおける上院の役割を、日本で果たしているのは(理性の代表という点においては)間違いなく裁判所でしょう。司法は民意と離れた機関だからこそその存在に意義があるのではないでしょうか。
司法にまで民意を取り入れるというのなら、態々三権分立をする意味はありません。審理も判決も全て民意の象徴である国会の多数決で決まれば良い。しかし、現実にそれをしてしまえばどんな事が起きるのか…
皆さんも想像に難くないのではないでしょうか。
市民感覚を反映させるのは、司法ではなく立法の役割のはずです。市民感覚を司法に反映するというのは、僕は間違ってると思います。
僕が反対する理由の二つ目は、刑事裁判で護られるべき根底が覆される可能性があるということです。
日本のみならずすべての法治国家では、罪刑法定主義という刑事司法の基本原則があります。罪は情ではなく法で裁く。昔、独裁者や権力を持った人間の感情ひとつで刑罰が定まっていた時代の反省が込められた、司法にとってとても大事で絶対に守るべき原則のひとつです。
罪は法で裁くのです。市民の感覚で裁くのではありません。
確かに、法に意思はありません。法には、その事件の特性や背景を斟酌して適切な量刑に導くことはできません。だから、法のエキスパートである裁判官が法に代わって、法に則って、罪を裁く。とても理にかなった制度です。そこに、法を知らない我々一般人が入り込む余地は無いように思います。
そもそも、今の日本国民は人1人の人生を背負う裁判を担当できるほど成熟しているでしょうか?何かニュースになった記事のリプ欄で、死刑になれば良い、と平気でネット上で発言してる人が溢れかえっています。
ネットだから強気なだけだ、という人もいるでしょう。裁判を担当すればしっかりやってくれるはずだ、と。
しかし、重要なのは裁判でしっかりやるかどうかではありません。問題なのは犯罪者は厳罰を課すべきだ、卑劣な犯罪は死刑にすべきだ、という先入観です。
裁判員制度は、国民の司法への理解もひとつの目的に入っています。しかし、国民が司法を理解するのに1番重要なのは法や権利をしっかりと学ばせる事です。いきなり司法制度へ参加させるのは早すぎます。
犯罪者本人だけでなく、その家族の人権まで平気で蹂躙する。前科者を受け入れない社会は、日本の再犯率の高さの大きな理由のひとつなのは既になされた多くの指摘の通りです。
社会的弱者の人権ならば平気で蹂躙していいと思ってる国民に、果たして人1人の人生を裁く権利を与えるべきでしょうか?
僕はそうは思わない。国民の司法への理解の促進はとても大事です。しかし、それは別な方法でも可能です。司法参加というダイレクトな方法は、あまりに短絡すぎると思います。
裁判員制度が始まって、10年以上が経過しました。様々な問題点も指摘されていますが、現状は色々なことががいい方向に進んでいる事実は認めざるを得ません。
しかし、この制度は今後10年、20年、30年と続いていくでしょう。必ず何処かでおかしな事が起きると思います。市民に司法を預けるとはそういう事だと私は思ってます。
私が1番恐れているのは、民意により正しい事実認定が揺るがされる事です。1番ありうると私が思ってる例を挙げるとすれば、犯罪行為における精神障害の影響の認定でしょうか。
地裁の裁判員裁判で死刑判決が出たのち、高裁最高裁でひっくり返った事件が近年で2件ありました。そのどちらも、精神障害の影響をなかったという判決があったという認定に変更されたという事例です。
私の過去のブログで、刑法39条の話は既にしていますが、世論はこの39条による減刑にかなり厳しい目を向けています。この障害の影響が犯行に認められれば、例え何人殺害していても死刑にはなりません。無罪になることもあり得ます。これは本当に大切な制度ですが、感情的になる国民(これ自体は悪いことではありません)のみんなは中々理解してくれない現状があります。
この感情自体はある意味当然のことです。決してそれ自体を否定するものではありませんが、ただこのような状況下で法に即した適切な判断をできる可能性は下がると思います。
直近のペルー人6人殺害の件では、私は公判内容を聞く限りほとんど間違いなく精神障害の認定は出るだろうと思っていました。しかし地裁では死刑判決。のちに高裁最高裁でひっくり返りましたがこれは僕の感じていた危険性を現実化した事例のひとつとなってしまいました。
この件もそうだったように、裁判員制度は地裁のみですので控訴上告すれば判決がひっくり返る可能性は十分に存在します。
しかし、それはあくまで我々の甘い考えに過ぎないのです。一審の地裁判決に絶望し控訴をしない被告もいます。実際裁判員制度下で初めて死刑判決が下された裁判の被告は、地裁の裁判長から「控訴を勧める」という異例の説諭を退けて控訴を取り消しました。今でも死刑囚として東京拘置所に収監されています。このように、控訴できるから地裁のある程度の不備は許容されるというものではないのです。
長々と述べてきましたが、裁判員制度の目的のひとつである司法に対する市民の理解の促進というのは僕も必須だと思っています。しかし、その問題の解決を市民の司法参加に直接結びつける方法は僕は正しいとは思いません。また、市民感覚の反映は司法ではなく立法の役割であるという事、感情や民意に左右されやすい市民感覚を司法に取り入れるという行為は、罪刑法定主義に基づく公平公正な司法の存立を危うくする可能性があることも併せて、僕は裁判員制度に反対します。
久しぶりの投稿で、書き終わるのに約2週間かけました笑笑
最後まで読んでいただきありがとうございました。
また、どこかで出せればいいかと思います。