夜、ふと目を覚ましたとき、胸を締め付けるような後悔が波のように押し寄せてくることはないだろうか。

あのとき、あんなことを言わなければよかった。あの人を傷つけてしまったのではないか。

私たちは心のどこかで、自分の弱さや過ちを誰かに帳消しにしてほしいと切実に願っている。

しかし、いざ自分が誰かに同じことをされると、なぜか途端に許せなくなってしまうのはなぜだろうか。

この人間の心の奥深くにある矛盾を、イエス・キリストは一つのたとえ話を通して鮮やかに示された。

終わりのない計算の果てに

ある日、イエスは人々に一つのたとえ話を語った。 
それは、途方もない借金を抱えた一人の家来の物語だった。
(マタイの福音書18章23〜35節)

 

王の前に引き出されたその男は、自分では絶対に返済不可能なほどの莫大な借金を抱えていた。 当時の感覚で言えば、一生かかっても返しきれない、気の遠くなるような金額である。

絶望の淵で男がひれ伏して慈悲を乞うと、王は驚くべき決断を下した。
なんと、その全額を帳消しにし、借金をすべて免除してやったのだ。

王は、返済を少し待ったのではない。
借金の一部を減らしたのでもない。
その借金そのものを赦し、すべてを免除したのである。

 

想像してみてほしい。
首の皮一枚でつながっていた人生が、ある日突然、完全に自由になった瞬間を。

重くのしかかっていた鎖が外れ、胸いっぱいに新しい空気が流れ込んでくるような、あの圧倒的な解放感を。

男はどれほど救われたことだろう。
王の寛大さは、人間の計算を遥かに超越していた。

しかし、物語はここから信じられない展開を迎える。

大きな赦しを受けた人が、なぜ人を赦せなかったのか

その後、借金をすべて免除されたばかりのその男が、帰り道で自分にわずかな小銭を借りている同僚に出会うのだ。

その借金は、先ほど自分が赦してもらった莫大な借金とは比べものにならないほど小さなものであった。

ところが彼は、その仲間につかみかかり、

「借金を返せ」

男は同僚の首を締め上げ、容赦なく借金の取り立てを行った。
同僚は泣き崩れ、同じように待ってほしいと懇願した。

だが、ついさっき途方もない赦しを体験したはずの男は、その願いを冷酷に踏みにじり、相手を牢屋に放り込んでしまったのである。
(マタイの福音書18章28〜30節)

なぜ私たちは同じ過ちを繰り返すのか

この滑稽で、そしてどこか痛々しい姿は、そのまま私たちの姿ではないだろうか。

私たちは日々の暮らしの中で、見えない存在からどれほどの命の恩恵や慈悲を受けて生きていることだろう。

自分がこの地上に存在していること自体、自らの力で勝ち取ったものではない。

親から受け継いだ命があり、数え切れない支えがあり、知らず知らずのうちに犯してきた多くの過ちを、私たちは幾度となく見逃されて生きている。

 

それなのに、いざ目の前の誰かが自分に対して小さな過ちを犯したり、期待を裏切ったりすると、途方もない怒りが湧き上がってくる。

「あの人は許せない」

そう言って相手を心の中で裁き、追い詰めてしまう。

私たちは、自分がどれほど大きなものを無償で与えられているかを忘れてしまう生き物なのだ。

 

受け取った慈悲の大きさを忘れたとき、私たちの心は途端に冷え切ってしまう。

私たちは、自分の命そのものを自分の力で生み出したわけではない。

 

聖書は、人間が神によって造られた存在であることを語っている。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記1章27節)

 

命そのものが、神から与えられた恵みなのである。

さらに聖書は、私たちが罪によって神との交わりを失っていたにもかかわらず、神が私たちを見捨てず、救いの道を備えてくださったことを語っている。

 

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことによって、
神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
」
(ローマ人への手紙5章8節)

ここに、私たちが決して忘れてはならない大きな赦しがある。

神の赦しは、私たちの功績によるものではない

神は、「あなたが十分に良い人間になったなら赦そう」と言われたのではない。
私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために十字架にかかられた。
だから、キリスト教における赦しは、単なる道徳の教えではないのである。

「もっと良い人になりなさい」
「もっと我慢しなさい」
「相手を許せる人になりなさい」
という努力だけの話ではない。

その根底にあるのは、
「あなたはすでに神の大きな憐れみを受けている」
という福音なのである。

使徒ヨハネは、神の愛についてこう語っている。

「私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
宥めのささげ物として御子を遣わされました。
」
ヨハネの手紙第一4章10節

私たちが神を愛する前に、神が私たちを愛してくださった。
私たちが神を求める前に、神が私たちを求めてくださった。

私たちが赦されるに値する者になったからではない。
神の憐れみによって、赦しへの道が開かれたのである。

「七回までですか」──赦しを数える心


このたとえ話の少し前、ペトロはイエスに尋ねている。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回まで赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
マタイの福音書18章21節

ペトロにとって「七回」という数字は、かなり寛大な答えであったのであろう。
しかし、イエスはこう答えられた。
「七回を七十倍するまで」
マタイの福音書18章22節

これは、単純に「490回まで赦し、その次は赦さなくてもよい」という意味ではない。
赦しを回数で計算する生き方から離れなさい、ということである。

「あと何回までなら赦せるだろう」
「今回は許す。しかし次は許さない」
そのように赦しを計算するのではなく、

「私はどれほど神の憐れみによって生かされているのだろう」
と自分自身を振り返る。

そこから、隣人への赦しが始まるのである。

赦すことは、悪を正しいと言うことではない


ここで、一つ大切なことがある。
聖書が「赦しなさい」と教えているからといって、
悪いことを「悪くなかった」と言う必要はない。
傷つけられた事実を否定する必要もない。
不正を見過ごすことでもない。

必要であれば、相手と距離を取ることもできる。
誰かに助けを求めることもできる。
正しいことを求めることもできる。

それでもなお、自分の心を憎しみに支配させないことはできるのである。
「私はこの人を神の御手に委ねます」
そう祈ることもできる。

赦しとは、受けた傷をなかったことにすることではない。
その傷を抱えながらも、復讐や憎しみに自分の人生を支配させないことである。
そして、その人を神の御手に委ねることなのである。

「許せない」という心が、自分自身を縛る


たとえ話の中で、赦してもらった家来は、仲間を牢に入れた。
しかし、そのことを知った王は怒り、最初に免除した借金について、
今度は彼自身に責任を問うことになる。
(マタイの福音書18章31〜34節)

この物語が私たちに突きつけているのは、赦しを受けた者が、他者にその憐れみを分け与えなかったという事実である。
イエスは、このたとえ話の最後にこう語られた。

「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、
わたしの天の父もあなたがたに、このようになさいます。」

(マタイの福音書18章35節)

これは単なる脅しの言葉ではない。
人間の魂の状態を示す、非常に深い言葉でもある。

誰かを憎み続けるとき、私たちは相手を罰しているつもりになる。
しかし、実際には、自分自身の心がその出来事に縛られてしまう。

過去の言葉。
過去の裏切り。
過去の怒り。
過去の傷。

それらを何度も心の中で繰り返すうちに、私たちは過去の牢獄に閉じ込められてしまう。
相手はもう目の前にいないのに、その人の言葉だけが、今も私たちの心を支配している。

だからこそ、赦しは魂を自由にする道でもあるのである。

赦しは、一瞬で完成するものではない


しかし、「赦さなければならない」と思えば思うほど、苦しくなることもある。
「まだ赦せない自分は、信仰が足りないのだろうか」
と、自分自身を責めてしまうこともあるだろう。

けれども、赦しは必ずしも一瞬で完成するものではない。
深い傷を負った心には、時間が必要なこともある。
だからこそ、無理に感情を消そうとする必要はない。
まず神の前に、そのままの心を持っていけばよいのである。

「主よ、私はまだこの人を赦すことができません」
「私は傷ついています」
「怒っています」
「どうすればよいのか分かりません」
そのように正直に祈ってよいのである。

そして祈りの中で少しずつ、
「主よ、この人をあなたの御手に委ねます」
と言えるようになる。

その小さな一歩から、赦しが始まることがある。
赦しとは、感情を無理やり変えることではない。
自分の傷を少しずつ神に委ねていく歩みでもあるのである。

主の祈りにある「赦し」


イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」にも、赦しについての言葉がある。
「私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
」
(マタイの福音書6章12節)

 

ここでいう「負い目」には、神に対する罪や、人との間に生じた負いを含む深い意味がある。

私たちは、
「神様、私の罪を赦してください」
と祈る。

その一方で、
「あの人のことは絶対に赦しません」
と言い続けるなら、私たち自身の祈りの中に矛盾が生まれてしまう。

だからイエスは、私たちに、
「自分がどれほど神の憐れみを受けているのかを忘れてはならない」
と教えておられるのである。

十字架のキリスト──赦しの究極の姿


そして、私たちが赦しについて考えるとき、最後に目を向けるべきなのは、十字架上のキリストである。

主イイスス・ハリストスは、罪のないお方でありながら、人々から嘲られ、傷つけられ、十字架につけられた。
そのとき主は、御父にこう祈られた。

「父よ、彼らをお赦しください。
彼らは、自分が何をしているのか分かっていないのです。
」
(ルカの福音書23章34節)

ここに、キリストの愛がある。

赦しとは、簡単なことではない。
本当に傷ついたとき、人間の力だけで相手を赦すことは難しい。
だからこそ、私たちは自分の力だけで頑張るのではなく、キリストのもとへ行くのである。

「主よ、私には赦す力がありません。
どうか私の心を憐れみ、私の傷を癒やし、
私が憎しみから自由になる力をお与えください。」

そのように祈るのである。

今日、心の中にいる「あの人」を神に委ねる


もし今日、心の中に「どうしても赦せない」という人がいるなら、無理に忘れようとする必要はない。
まず、その人のことを神に委ねてみることである。

「主よ、この人をあなたの御手に委ねます。
私の心にある怒りも、悲しみも、悔しさも、あなたにお委ねします。
私自身も、あなたから赦されて生きている者であることを忘れないようにしてください。
そして、私の心を憎しみから自由にしてください。」

そう祈るのである。

すぐには何も変わらないかもしれない。
それでもよい。
一度でできなくてもよい。

今日できなければ、明日もう一度。
そして、また次の日にもう一度。

少しずつ神に心を開いていけばよいのである。

おわりに──赦しは、魂の自由への扉である


私たちは皆、神の憐れみを必要としている存在である。
誰一人として、自分の力だけで完全に正しく生きることはできない。

私たちは失敗する。
人を傷つける。
後悔する。

そして、自分自身もまた誰かから傷つけられる。
だからこそ、私たちには赦しが必要なのである。

イエス・キリストが語られた「赦せない家来」のたとえは、
私たちに一つの大切なことを教えている。

それは、
「自分がどれほど大きな神の憐れみによって生かされているのかを忘れないこと」
である。

私たちは赦された者である。
だからこそ、少しずつ隣人を赦す者へと変えられていくのである。

赦すことは、相手の行為を肯定することではない。
自分の傷を否定することでもない。

それは、自分の心を憎しみに明け渡さず、その人を神の御手に委ねることである。

そして、そのとき私たち自身もまた、過去に縛られた牢獄から、一歩ずつ外へ出ていくことができる。

今日、ほんの少しだけ心の扉を開くのである。
神の憐れみを思い出すのである。

そして、言葉にならなくてもよい。
ただ静かに、
「主・イエス・キリスト、我を憐れみ給へ」
と祈るのである。

私の罪を赦してください。
私の傷を癒やしてください。
私が人を憎み続けることから自由にしてください。
私が受けたあなたの憐れみを、隣人にも分かち与えることができますように。
私の心をあなたの愛で満たしてください。

「主・イエス・キリスト、我を憐れみ給へ。」

今日も、キリストの赦しの中を歩んでいくのである。
心にある重荷を、少しずつ主の御手に委ねていくのである。

そして、キリストの平安が、
私たちの魂を静かに包んでくださることを信じるのである。
アーメン。

 

【日々の聖書】マタイによる福音書18章23節〜35節