あなたの魂が、今もし「自分はなんてダメなんだろう」という自責の念に押しつぶされそうだったり、大切な人を裏切ってしまった後悔で夜も眠れなかったりするなら、今日の物語は、あなたの心を優しく包み込む「回復の鍵」になるはずです。
人は、自分が強いときには神様を必要としません。でも、自分の弱さが露わになり、守っていたプライドが剥がれ落ちたとき、初めて魂は「本当の救い」を求め始めます。
今日は、イエスが捕らえられたあの激動の夜、人々がどのように逃げ出し、そしてどのように救い主と向き合ったのかを、一緒に見つめていきましょう。
1. 偽りのキスと、暗闇の逮捕劇
夜の静寂を切り裂いて、武器を持った群衆がやってきました。その先頭にいたのは、弟子のひとり、ユダでした。
「裏切る者は、彼らに合図を決めておいた。『わたしが口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、油断なく連れて行け。』」
ユダは、親愛の情を示すはずの「口づけ」を、裏切りの合図に使いました。なんという悲劇でしょう。彼はイエスを「先生(ラビ)!」と呼びながら、その裏では銀貨のために師を売ったのです。
イエスはこの卑劣な行為に怒るのではなく、ただ静かにこう言われました。
「あなたがたは、強盗に向かうように、剣や棒を持って、わたしを捕らえに来たのか。
毎日、宮で教えていたときには、わたしを捕らえなかった。
しかし、こうなったのは、聖書が成就するためである。」
イエスにとって、この理不尽な逮捕さえも、あなたを救うための「神様の大きな計画」の一部でした。わたしたちの人生にも、裏切られたり、不当に扱われたりする瞬間があります。
でも、そんな暗闇の中でも、神様の計画は着実に進んでいるのです。
2. 裸で逃げ出した少年の「正体」
イエスが捕らえられたとき、あんなに「死んでも離れない」と言っていた弟子たちは、一人残らず逃げ去ってしまいました。その混乱の中で、マルコだけが記している不思議なエピソードがあります。
「ある若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて行ったが、人々が彼を捕らえようとすると、亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。」
この「裸で逃げた少年」は、この福音書を書いたマルコ本人ではないかと言われています。イエスを愛してついて行きたかったけれど、いざとなると怖くて、恥も外聞もなく裸のまま逃げ出してしまった……。
これは、わたしたちの姿そのものです。立派な「信仰」という衣をまとっているつもりでも、人生の危機に直面すると、その衣は簡単に脱げてしまい、無防備で醜い「裸の自分」が露わになります。でも、聖書がこのエピソードをあえて残したのは、神様がそんな「裸で逃げるほど情けないわたしたち」をも、救いの物語の登場人物として愛してくださっているからです。
3. 「知らない」と三回誓ったリーダーの涙
物語の焦点は、もう一人の弟子、ペテロに移ります。彼は遠くからイエスについて行き、大祭司の中庭で火にあたっていました。
そこで女中から「あなたもイエスと一緒にいた」と指摘されます。
「しかし、ペテロはそれを打ち消して、『何のことか分からない。君が何を言っているのか理解できない』と言った。……ペテロは呪いをかけて誓い始め、『あなたがたの話しているその人のことは知らない』と言った。」
一番の弟子だったはずのペテロが、呪いまでかけて「イエスなんて知らない」と三回も拒絶しました。
その直後、鶏が二度鳴きます。イエスに予言されていた通りでした。
するとペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言う」というイエスの言葉を思い出した。彼は、それに思い至って泣き崩れた。
この「泣き崩れた」という言葉。それは、自分の傲慢さが砕かれ、本当の自分がいかに小さく、弱いかを悟った魂の叫びでした。でも、この涙こそが、ペテロを「新しい自分」へと生まれ変わらせる洗礼となったのです。
4. 沈黙の王が教えてくれる「魂の自由」
弟子たちが逃げ惑う一方で、裁判にかけられたイエスは圧倒的な威厳を保っておられました。偽証が飛び交い、大祭司が詰め寄っても、イエスは沈黙を守ります。しかし、たった一つの核心的な問いには、はっきりと答えられました。
大祭司は再びイエスに尋ねた。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」イエスは言われた。「わたしが、それです。」
この一言で、イエスの死刑は確定しました。イエスはご自分が「救い主(キリスト)」であることを隠さず、その代償として死を受け入れられたのです。
人々はイエスに唾をかけ、殴り、あざけりました。でも、イエスはそのすべての辱めを、あなたの代わりに受けてくださいました。あなたが罪悪感で自分を責めるとき、イエスの沈黙が「わたしが代わりに受けたから、あなたはもう自由だよ」と語りかけてくれます。
結びに:弱さを知った人だけが、本当の愛にたどり着く
今日の物語には、「立派なヒーロー」は一人も出てきません。
裏切るユダ、裸で逃げる少年、三度拒絶するペテロ。
みんな、ボロボロで情けない姿です。
でも、それこそが福音(良い知らせ)の始まりなのです。 魂の救いは、あなたが「強いから」与えられるのではありません。
自分の「裸の姿」に絶望し、ペテロのように泣き崩れたとき、そこにイエスの深い憐れみが注がれるのです。
あなたがどんなに大きな失敗をしても、イエスは「だから言ったじゃないか」と冷たく突き放すことはありません。むしろ、あなたが「わたしを知らない」と言ったその瞬間も、イエスはあなたを「知っているよ、愛しているよ」と見つめ、あなたのために十字架へと向かってくださいました。
今日、自分の弱さに落ち込んでいるあなた。その弱さこそが、神様の愛を100%受け取るための器になります。泣き崩れたペテロが、のちに素晴らしいリーダーになったように、あなたの失敗もまた、神様の大きな祝福へのステップになります。
勇気を出して、ありのままの自分をイエスに預けてみませんか。
そこから、喜びと希望に満ちた新しい人生が始まります。
それでは、祈りましょう。
「主・イエス・キリスト、我を憐れみ給へ!」


