石田観仙石彫展 ー 石に込めた魂 ー

 

 

こちらが企画展示室の入口になります。

 

会場に着いたら先ずこのパネルを探して下さいね。

 

初日から

パネル前で写真を撮って送って下さった友がいるくらい、

ここは記念撮影に向いてるのかな。

 

個展の詳細はこちらです

 

 

 

 

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面山禅師尊像の台座
最終調整中

 

像の石色が緑青なので

銅像のような雰囲気もありますね。

台座に乗ると

より一層風格が出てきます。

像の画像はこちらを見て下さいね。

 

 

 

 

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今回のポスターとチラシになります。

 

会場では

エンドレスで動画も流す予定です。
友人に観ていただきましたが、かなり好評。

会期が長いので
是非観ていただければと思います。

 

搬入が近づきましたが、

まだ作品を作っています。

 

間に合うよう励みます。

 

 

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【 個展のご案内 】

 

※ 2月に告知したものですが、

詳細が決まりましたのでご案内いたします。

 

 

【 石田観仙石彫展 】

ー 石に込めた魂 ー

 

 高松市公式ホームページでの紹介

https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/.../ishidakansen.html

 

《 会期 》

10月7日(土)-11月12日(日)

  ※ 1ヶ月と少しあります。

  ※ 休館日は月曜日( 休日の場合は翌平日 )

  午前9時〜午後5時

 ( 展示室入室は閉館30分前まで )

 

《 アーティストトーク 》

  10月29日(日) 午前10時〜

  ※ 定員20名予約制

   予約方法はこちら↓

https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/.../talk...

 

《 会場 》

香川県高松市・石の民族資料館・企画展示室

※ 当時、牟礼町が10億かけた

見事なアーキテクチャの企画展示室になります。

《 観覧料 》一般200円、大学生150円

  ※ 資料館の企画展なのでご了承下さい。

( 高校生以下、65歳以上の方は観覧料免除 )

 

《 開館時間 》

  ※ 午前9時〜午後5時

( 展示室入室は閉館30分前まで )

 

 

僕が在廊するのは、

おそらくアーティストトーク日と

その前日くらいかと思います。

 

現在、父が要介護4( 認知症&せん妄 )

母が要介護2( 認知症 )

 

父は施設に入っていますが、

急速に状態が悪くなってきたため

目が離せない状況で、

母は自宅で面倒をみていますので

長時間家を空けることができません。

 

今月は里帰り出産の娘もいて、

来月は次女の結婚式。

プライベートが忙しく新作にも集中できない状況。

 

そんな中でも

最高の展示会にしたいと思いますので

宜しくお願い致します。

 

画像は

会場の外観と企画展示室の内観です。

 

 

 

ちょうど40年前に、

僕はこの地で彫刻修業の

年季が明けました。

 

おやっさん( 師匠 )彼岸から喜んでくれるかな。

生きててくれたら、何て言ってくれたかな。

 

実は今、

展覧会に全く興味がないんです。

しかし40年という節目の時に、

この企画をいただいた。

 

18〜22歳までいた地。

 

今62歳で、

とてもいい時にいただいたお話だと

感謝しています。

 

数ヶ月前になりますが、

館長さんと二人の学芸員さんも交えて、

企画して下さった

アキホタタさんとの打ち合わせに

香川まで行ってまいりました。

 

資料館ですが、

美しいアーキテクチャと、

素晴らしい展示室でした。

 

近くには、

イサムノグチ庭園美術館や屋島など、

見所も多いです。

 

何より

穏やかな瀬戸内の海に

癒されにきていただければと思います。

 

展示室では動画も流す予定です。

 

在廊日が少なく心苦しい面もございますが、

多くの方に来ていただければ幸いです。

 

 

 

 

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【 面山瑞方 】

 

 

面山禅師像の完成です。

ご依頼から二年。

 

肖像画を基に、

石造だからこその力強さと、

その中に溢れる優しさを感じながらの作品。

 

対峙していたのは己自身。

面山禅師は、江戸時代中期の曹洞宗の高僧です。

 

熊本に生まれ、

87歳で示寂されるまで各地に赴いて仏法を説き、

教えを正しく広めることに生涯を捧げた傑僧。

 

法衣は如法衣( にょほうえ )

 

石は新潟県妙高の千種石です。


ところが

御手が違うということで、

この後修正したのです。

 

その完成写真がこちらです。

 

 

 

 

【 法界定印 】

 

 

両掌を上に向け、

右手を下、左手を上に重ね、

両手の親指の先端は微かに触れる程度、

また紙一枚分くらいの隙間を開けるくらい。

 

これを法界定印(ほっかいじょういん)といい、

曹洞宗で座禅をする時に

非常に大切な印相(手の位置と指の形)になります。

《 この中に仏様がおわします 》

 

今回は勉強不足で、

その部分を修正させていただきました。

 

先ず、親指の先端を削り、

そのことで短くなってしまった親指は

付け根の部分を彫り、長さを調整する。

 

そうすると、

今度は他の指が全て長くなってしまうので、

そこを修正。

 

最後に全体のバランスを修正して完成致しました。

 

よくここまでもってきたと思います。

 

下支えを感じますね。

 

 

《 観仙耀一万 》

 

 

 

 

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10.【 四代目酒井孫兵衛 】


Historyシリーズも10回目となりました。

三代目孫兵衛が再興した専業石工業でしたが、

四代目( 幼名・半十、1865年没 )で、

いよいよ弟子をとることになったそうです。


幾人かの人材を育てて独立させ、

酒井一門ともいえる門流を形成したとあります。


☆☆☆☆☆


さて、

石田家もいよいよ祖父( 初代石田観仙 )の話

に入っていきます。

曾祖父・伴作は妻・さだ( 1879年生まれ )をもらい、

長女・キミヨを授かる。

そして、明治44年には、

長男、後の初代石田観仙となる祖父の淳一郎が生まれました。

遠州灘と呼ばれるところで、

日出の石門から浜名湖まで

十三里( 約52km )にわたって続く

雄大な砂浜の途中にある田舎町、

小松原町。

淳一郎は、

生まれ故郷である小松原海岸の

荒々しい海が大好きでした。

酒ばかり飲んで荒れていた父・伴作を見て育ち、

家は貧しく地元では仕事もない。
なんとかしなくてはと思っていた少年時代。

どこで聞いたか分かりませんが、

岡崎の成瀬大吉という方のもとで、

石彫刻を学ぶことを決意。

石田家が岡崎の地に住むことになり、

石彫を家業とすることになるきっかけを掴みます。


☆☆☆☆☆


画像は、祖父の好きな小松原海岸です。

子供の頃、

一度だけ祖父と電車に乗り、

海沿いの町、小松原へ行ったことがあります。

祖父は孫の僕を本当に可愛がってくれました。

僕はお爺ちゃん子だったんです。

「 たまに小松原の海が見たくなるよ。あの荒々しい海がな。 」

そんな言葉を聞いたことも2.3回あった。
晩年どうして連れて行ってあげなかったのか。

若い頃は、自分のことで精一杯だったこともある。
それにしても愛が足りなかった自分が情けない。

それでも、祖父と僕の繋がりは深かった。

後に僕は祖父と約束をして、

ここに生まれてきたことを思い出す。

時折、

僕は祖父の好きだった小松原海岸へ行きたくなる。

 

 

 

 

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9.【 三代目酒井孫兵衛 】


初代孫兵衛没後、約百五十年。
酒井家は再び石工業を専業としたのか、

それが酒井家代々の悲願であったのかは分かりませんが、
ここからまた酒井家のストーリーが始まります。

☆☆☆☆☆

さて、石田家の続きです。

江戸時代は、徳川の庇護を受け高家となった今川家。
その今川との繋がりが深い石田家でしたが、

明治に入り状況は一変します。

武士は必要ない時代。
今川家は維新後、士族となりましたが、

明治二十年に今川範叙の死をもって嫡流が絶えました。
 

彌八が43歳の時。
てるは31歳。
伴作はまだ8歳の時でした。
 

高祖父の父・猫吉も亡くなる二年前・75歳で存命でした。

彌八も苦しい時期だったと思います。
それなりの武士一族として過ごしてきた環境が

維新により一変したわけです。

伴作ともあまり関係が良くなかったと思うんです。
外から入ってきた人間で、

血も繋がっていませんし、時代の激動期。

おそらく代々、気位の高い石田家に、

外から入ってきて馴染めるはずもなかったのかもしれません。

祖父・淳一郎( 1911ー1996 )は

伴作と共に愛知県豊橋市小松原町に住んでいましたが、

彌八もそこに住んでいたかは定かではありません。


☆☆☆☆☆


画像の胸像の下にあるのは、大理石です。

僕が小さい時ですが、

まだ日本で大理石彫刻をする方は

ほとんどいなかったと思います。

 

 

 

 

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8.【 二代目酒井孫兵衛 】


岡崎全体の石工の歴史はさておき、

しばらくは岡崎の石像彫刻を発展させた

酒井家の伝承に絞りたいと思います。

今回は二代目酒井孫兵衛についてです。

実は二代目だけは不明なんです。
何の伝承も残されていないのです。

酒井家の系譜を見てみると、
★庄三郎《 初代孫兵衛 》(1654年没)
☆庄三郎(1697年没) ※二代目?
 徳兵衛(1714年没)
 庄三郎(1729年没)
 利右衛門(1748年没)
 庄蔵(1792年没)
 兵治郎(1815年没)
★三代目孫兵衛(1846年没)

これを見ても分かるとおり、

初代と三代目の没年が、約二百年も開きます。


2代目庄三郎から兵治郎までの誰かが

二代目孫兵衛だとして、

誰かは分からないのです。


これは想像ですが、

2代目の庄三郎が二代目孫兵衛ではないかと

勝手に思っています。

安定していた江戸時代です。
その後、石工の仕事は減り、

徳兵衛から兵治郎まで5代に渡り

半農半工の時代が続いていたのではないか

という話もありますが、

調べてみると、

それなりに石の仕事はあったようです。
腕が良ければ依頼はあったはず。

なので、

この百数十年はよく分からない部分なんです。


☆☆☆☆☆


さて、石田家の続きです。

曾祖父・伴作の下には、
三男・國治( 1881年生まれ )
四男・安吉( 1883年ー1949年 )
五男・喜三郎( 1886年ー1936年 )
六男・瀧造( 1888年ー1911年 )
長女・のぶ( 1892年生まれ )
七男・浅次( 1896年ー1976年 )
の弟妹がいます。

実は今日、各生年月日を見て驚いてしまいました。
伴作の母である、てるは1890年に亡くなっています。
享年34歳でした。

高祖父である彌八は、

てるの後にも妻を娶っていたことになりますよね。
 

これは知りませんでした。
いったい何人目までが、てるの子なのかも分からない。

伴作は酒ばかり飲んで荒れていたと聞きます。
おそらく辛い体験をしていたと想像します。


祖父の淳一郎は、

この辺りの話を聞かせてくれませんでした。

高祖父・彌ハさんよ。
いったいどうしたんだい?

今日は孫兵衛と石田家、

どちらも一番分からない部分を書きました。


☆☆☆☆☆


画像は、胸像です。
昔は、このようなご依頼がかなりありました。
今のお金持ちは魅力を感じないのでしょうね。

結構大変な制作なんですよ。
先ず、粘土で形を作り、

お施主様の承諾を得たら石膏に型取り。
ここで終わりではなく、

それと全く同じものを石で彫らなければいけませんからね。

今回も長くなりましたね。

 

 

 

 

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7.【 石屋町と丁場( 採石場 )】


少し間が開いてしまいましたが、

History の続きを綴りたいと思います。

 


岡崎には花崗町( みかげちょう )という、

かつての石屋町があります。


その通りは今も【 石屋町通り 】と呼ばれます。
石屋町通りは花崗町だけでなく、

門前町にかけての呼び名です。

1590年からの田中吉政の時代に、

河内、和泉の国から招かれた石工達は

手厚く保護されていました。

昔の石工は官と繋がっていて身分も高かったのでしょう。
お寺とも繋がっていました。


今も門前町に随念寺というお寺がありますが、

田中吉政が城主の時に、

随念寺の土地を石工達に貸し与えていたそうです。

その近隣接地には、

六供町や梅園町の丁場などあり、

石屋町の石工にとっては、

歩いて数分という極めて便利な場所に

採石場があったというわけです。


岡崎城の北東部は花崗岩が豊富に採れますが、

今は住宅地となり、

宇寿石は山の方の滝町、米河内町まで行かなければ

採掘されていません。

米河内と河内が繋がっているような氣がしてしまうのも、

そういう背景があるんですね。


☆☆☆☆☆


さて、石田家の歴史ですが、

今日は重要な部分を書こうと思います。

離別か死別かは分かりませんが、

彌八は妻・たみと別れ、

後妻に【 てる( 1856年ー1890年 )】をもらいます。
たみとの子は善吉ひとりでしたが、

善吉は吉川家へ養子に出されてしまいます。

そして、後妻てるには連れ子がありました。
その連れ子こそ、

僕の曾祖父・伴作( 1879年生まれ )なんです。


ご先祖様が石田三成と繋がっていたと書きましたが、

実は僕にはその血は一滴も流れていないのです。

高祖母てるが何処から来たのか、

どんな一族なのかは全く分かりません。

分かっていることと言えば、
石田家は、ものすごく位の高い家系で、 

何事も地位名誉を重んじるガチガチの中に、

少しは柔らかく自由に、

芸術をも楽しめる別の血が入ってきたということ。

祖父の子は、皆、それぞれに才能を開花し、

日本将棋連盟理事だった石田和雄九段もいます。
あの藤井聡太くんの最初の連勝記録を止めたのも

和雄さんの弟子になります。

和雄さんとの思い出は沢山ありますが、

長くなりますのでまたの機会にしましょうね。

今日はこの辺で。


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画像は肖像になります。
僕が小さい時のものですが、

どなたの像なのかは分かりません。

ここは、当時の自宅兼工房で、

僕も高校卒業まではここに住んでいました。

 

 

 

 

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面山禅師像

 

まだ制作途中ですが、

かなりのところまできました。

 

身体の量は決まってきたと思います。

これから法衣を仕上げていきますね。

 

御顔の量はもう少しです。

石像の場合、

少しどっしりと作った方が

生きてきます。

 

ただ余分な贅肉は要らないので、

法衣等にも工夫が必要。

 

ここからが

一番大切なところで

慌てずに

こちらもどっしり構えることが肝要ですね。

 

あとは繋がるだけです。

 

 

 

 

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