岸柳4 もう一人の佐々木小次郎
とかく世間というものは、なにかにつけて噂(うわさ)をするのが好きである。しかも噂の内容に自分の期待感を込めては想像したり着色したりするのが大変好きなようなのだ。 しかし、どんな噂が立ってもそれは一時的なものに過ぎず、七十五日も経てば消えていくものだといわれる。つまり季節が変われば、また新しい噂話が入るのをひたすら期待し希望するのが世間の感情の常であるということであろう。
が、しかし柳庵に滞在して六日になる佐々木小次郎に対する在らぬ噂は、半年前よりも ますます膨れる(ふくれる)ばかりで、妬み(ねたみ)や期待感そして恐れ等が入り混じり、その噂によって本人とはまったく別人の佐々木小次郎というもう一人の人間が形勢され、それが独り歩きをしだしていた。
「柳庵に泊まっているのぉ、若えいけえうら(大男)ちゅーのは、佐々木小次郎といってな、浄教寺村の富田派中条流道場の門弟だったが、あるとき道場主の富田越後守(えちごのかみ)重政公の高弟を立ち上がれなくまで打ちのめしたとな 」
「えっ!越後守の一番弟子をしゃい(破った)たと、それはかすな(かなり)の腕前じゃのう 」
「それだけとは、ちゃうざ、中条流本家の山崎将監(しょうげん)と試合して、将監の右肩を砕いたとな。それを耳にした富田派中条流道場の留守居役の師範代伊藤一刀斎(鐘巻自斎)は激怒して佐々木小次郎に破門を言い渡したそうだてな」
「いきさつはどうでもよいけんど、そら~ぁ佐々木小次郎ちゅーは越前で一等強い剣術使いやて~ほんなうら(男)がなんだって柳庵に何日もいねまっとる(逗留してる)じゃのう」
「聞くとこによっと、山崎将監の娘は出戻りなんやけど 、あの若党はその娘に一目惚れしてしまい、付き合いを申し出たがあっさり断られたそうな…そのうっ憤をはらす為に柳庵に来なったということらしいてな …なんでも燕返しという技(わざ)を使うそうだてな」
「初耳じゃな、ほんな枕技は聞いたことがねぇ 」
「そのせいかどうか知らんが、柳庵の香豆(こまめ)という座敷持ちはぞっこん惚れ込んでしまい、わめ(自分)の年季奉公を伸ばしてでも佐々木小次郎を手離そうとせんてな…けなるいの(うらやましいの) 」
「いけえうら(大男)にまとわりついてるのぉ 五十がらみのちんちぇーうら(小男)はなにもんだのぅ」
「あら~ もとべとばえ(泥棒)やったんやざ…と誰かから聞いたっけやさ」
「とこで話はちゃうが うら(俺)が聞いたとこによっとなぁ あのいけえうらは御殿の林長門守様の兵法指南役に試合を申し込んだそうだて~その返事を待っとったが 奉行所を通して断られたそうだてな」
「ほんとけ そいつはおもっしっぇないわ」
「おえ おめぇはこの慶長の世で一等強い剣術使いは誰だとおもう」
「うらは もっち佐々木小次郎だと思うのぅ なんたっても越前だからのぅ」
「いやうらは十三歳で人殺しをした美州(みまさか:現在の岡山県東部)宮本村の玄信(まさのぶ)だと思うがな 村のもんは奴を野獣と陰で呼ばっとったそうだて 殺しをやって村を去ったあとは関ヶ原の役に西軍として戦い去年は京八流の宗家で名門吉岡道場の当主清十郎、弟伝七郎んーでぇ(そして)清十郎の倅(せがれ)で十三歳になったばかりの又七郎をと次々に屠って(ほふって)しもうたがな~なんせ吉岡道場の当主名目人となった又七郎を殺ったときの相手は百人やったんやざ… あの暴れん坊は、挑戦状の高札に作州 宮本武蔵と名乗って奉行所に届け出をしたそうやて…」
「武蔵といぅやっつぁー 二間離れてても獣(けもの)のような くっせーかざが(臭いにおいが)して臭くて臭くて たまらんそうだて~なんでかよくわかんねぇが 湯や風呂に生まれてこの方入ったことがねぇってよ…そんで草鞋が嫌いで裸足やざ~」
「そら おめぇ 猪や熊が湯に浸(つ)かってなはるのを見たことあんけぇ~」
「ねえけんどやさぁ~ その点 うちらの佐々木小次郎は大の湯好きやからな~ いまも香豆と仲良く浸かっとんとちがうか~ けなるいのぅ」
「ふぅ~ん まぁ そげなことはええが いずれ小次郎と武蔵はやるな~」
柳庵に滞在中も小次郎は稽古を怠たることはなかった。
九頭竜川沿の枝垂れ(しだれ)柳の下で日の出とともに稽古に励んだ。
稽古を終え柳庵に戻ると 湯船に浸かり香豆(こまめ)を待つのである。
師匠伊藤一刀斎の勧めで柳庵に来たが、「兵法者(ひょうほうしゃ)として世に出るには 人はヒトたるゆえんの本質を公私ともに見極めておかなければならない」といっていた師匠の言葉の意義が大分わかってきたようである。湧き上がる本能としての感情を香豆の五感と己の五感とで正直に確かめ合う その感触の高まりは自然に二人を調和へと指向してくれる しかしてその調和の深まりが頂点に至る過程において 互いの心身は第六感たる期待で混ざり合いあるいは引き合い そしてそれが統一されたときに絶頂に到達することができる またそれは生命の結晶を生み出す場合もあるのだ。
小次郎は香豆との愛を充分に堪能したといえよう。
香豆も生まれて初めて愛を知ったのである。
「小次郎さま、お慕いもうしあげています」
「儂も そなたを慕っておる…」
「小次郎さま」
「香豆どの」
「こまめといって…」
空からは さらさらと白いものが降りてきた。
やがて柳庵の中庭は白い結晶におおわれて水墨画のような情景をかもしだした。
つづく
が、しかし柳庵に滞在して六日になる佐々木小次郎に対する在らぬ噂は、半年前よりも ますます膨れる(ふくれる)ばかりで、妬み(ねたみ)や期待感そして恐れ等が入り混じり、その噂によって本人とはまったく別人の佐々木小次郎というもう一人の人間が形勢され、それが独り歩きをしだしていた。
「柳庵に泊まっているのぉ、若えいけえうら(大男)ちゅーのは、佐々木小次郎といってな、浄教寺村の富田派中条流道場の門弟だったが、あるとき道場主の富田越後守(えちごのかみ)重政公の高弟を立ち上がれなくまで打ちのめしたとな 」
「えっ!越後守の一番弟子をしゃい(破った)たと、それはかすな(かなり)の腕前じゃのう 」
「それだけとは、ちゃうざ、中条流本家の山崎将監(しょうげん)と試合して、将監の右肩を砕いたとな。それを耳にした富田派中条流道場の留守居役の師範代伊藤一刀斎(鐘巻自斎)は激怒して佐々木小次郎に破門を言い渡したそうだてな」
「いきさつはどうでもよいけんど、そら~ぁ佐々木小次郎ちゅーは越前で一等強い剣術使いやて~ほんなうら(男)がなんだって柳庵に何日もいねまっとる(逗留してる)じゃのう」
「聞くとこによっと、山崎将監の娘は出戻りなんやけど 、あの若党はその娘に一目惚れしてしまい、付き合いを申し出たがあっさり断られたそうな…そのうっ憤をはらす為に柳庵に来なったということらしいてな …なんでも燕返しという技(わざ)を使うそうだてな」
「初耳じゃな、ほんな枕技は聞いたことがねぇ 」
「そのせいかどうか知らんが、柳庵の香豆(こまめ)という座敷持ちはぞっこん惚れ込んでしまい、わめ(自分)の年季奉公を伸ばしてでも佐々木小次郎を手離そうとせんてな…けなるいの(うらやましいの) 」
「いけえうら(大男)にまとわりついてるのぉ 五十がらみのちんちぇーうら(小男)はなにもんだのぅ」
「あら~ もとべとばえ(泥棒)やったんやざ…と誰かから聞いたっけやさ」
「とこで話はちゃうが うら(俺)が聞いたとこによっとなぁ あのいけえうらは御殿の林長門守様の兵法指南役に試合を申し込んだそうだて~その返事を待っとったが 奉行所を通して断られたそうだてな」
「ほんとけ そいつはおもっしっぇないわ」
「おえ おめぇはこの慶長の世で一等強い剣術使いは誰だとおもう」
「うらは もっち佐々木小次郎だと思うのぅ なんたっても越前だからのぅ」
「いやうらは十三歳で人殺しをした美州(みまさか:現在の岡山県東部)宮本村の玄信(まさのぶ)だと思うがな 村のもんは奴を野獣と陰で呼ばっとったそうだて 殺しをやって村を去ったあとは関ヶ原の役に西軍として戦い去年は京八流の宗家で名門吉岡道場の当主清十郎、弟伝七郎んーでぇ(そして)清十郎の倅(せがれ)で十三歳になったばかりの又七郎をと次々に屠って(ほふって)しもうたがな~なんせ吉岡道場の当主名目人となった又七郎を殺ったときの相手は百人やったんやざ… あの暴れん坊は、挑戦状の高札に作州 宮本武蔵と名乗って奉行所に届け出をしたそうやて…」
「武蔵といぅやっつぁー 二間離れてても獣(けもの)のような くっせーかざが(臭いにおいが)して臭くて臭くて たまらんそうだて~なんでかよくわかんねぇが 湯や風呂に生まれてこの方入ったことがねぇってよ…そんで草鞋が嫌いで裸足やざ~」
「そら おめぇ 猪や熊が湯に浸(つ)かってなはるのを見たことあんけぇ~」
「ねえけんどやさぁ~ その点 うちらの佐々木小次郎は大の湯好きやからな~ いまも香豆と仲良く浸かっとんとちがうか~ けなるいのぅ」
「ふぅ~ん まぁ そげなことはええが いずれ小次郎と武蔵はやるな~」
柳庵に滞在中も小次郎は稽古を怠たることはなかった。
九頭竜川沿の枝垂れ(しだれ)柳の下で日の出とともに稽古に励んだ。
稽古を終え柳庵に戻ると 湯船に浸かり香豆(こまめ)を待つのである。
師匠伊藤一刀斎の勧めで柳庵に来たが、「兵法者(ひょうほうしゃ)として世に出るには 人はヒトたるゆえんの本質を公私ともに見極めておかなければならない」といっていた師匠の言葉の意義が大分わかってきたようである。湧き上がる本能としての感情を香豆の五感と己の五感とで正直に確かめ合う その感触の高まりは自然に二人を調和へと指向してくれる しかしてその調和の深まりが頂点に至る過程において 互いの心身は第六感たる期待で混ざり合いあるいは引き合い そしてそれが統一されたときに絶頂に到達することができる またそれは生命の結晶を生み出す場合もあるのだ。
小次郎は香豆との愛を充分に堪能したといえよう。
香豆も生まれて初めて愛を知ったのである。
「小次郎さま、お慕いもうしあげています」
「儂も そなたを慕っておる…」
「小次郎さま」
「香豆どの」
「こまめといって…」
空からは さらさらと白いものが降りてきた。
やがて柳庵の中庭は白い結晶におおわれて水墨画のような情景をかもしだした。
つづく
岸柳3
剣一筋に生きる佐々木小次郎が、小雪舞う勝山を訪れて、三日目からは、寒中には珍しく、うららかな日が続いていた。
「柳庵」座敷持ちの香豆(こまめ)によって、筆下しを得た小次郎は、女物の褞袍(どてら)を肩からはおり、障子を開けた…。
師匠の鐘捲自斎(かねまきじざい)から聞いた夜伽話(よとぎばなし)の通りであった。いや、それ以上であったかもしれない。
小次郎はこの初なる体験に、心地よい脱力感と静かな充足感とに満たされ、ふーっと白い息を吐いた。そして九頭竜川添いに並ぶ枝垂れ柳(しだれやなぎ)に眼をとめ、感慨にひたった。
母と別れ、浄教寺村の富田派中条流平法道場に、住み込みの弟子入りをしてから今日まで、十五年の歳月が流れていたのである。
入門した当時の道場主は富田景政(とだかげまさ)であった。しかし富田景政は前田利家公の兵法(ひょうほう)指南役として加賀にあり、また景政の婿養子重政も前田公長男の利長公の兵法師南役についており不在であった。そのため小太夫の剣術指導にあたったのは、富田道場の師範代であり「富田の三剣」といわれ、また鐘捲流(一刀流)開祖でもある鐘捲自斎であった。
小太夫の性根を叩きなおすべく、自斎のその稽古は壮絶を極めた。
その反面、眼病を患い剃髪し、道場を弟の景政へ譲り、隠居の身にあった富田勢源(せいげん)は、優しいお爺さん役に徹して小太夫を可愛がった。この飴と鞭による教育手段は、生まれつき癇(かん)が強過ぎて父親をも閉口させた小太夫が、健全たる子供として、そして青年として成長していく過程において、的を得た方法であったといえよう。しかし、その匙(さじ)加減は難しく、勢源と自斎のアウンの呼吸で緻密に練られた。
小太夫は勢源を「じいじい」とよんで慕った。それが時々口を滑らせて「じじい」と呼んでも罪はない。また、坦猿(のぎざる)の蓑兵衛(みのべい)も富田家に奉公人としての務めを許され、庭の掃除などの下働きについたことは、親里を離れた小太夫にとっては心強いものであった。
しかして小太夫の心の邪悪な部分は、自斎の厳しい剣術稽古によって抑え込まれ、また勢源爺による四書五経、茶道、華道、和歌等の手ほどきにより、おのずと文武を備えた兵法者になるべく、成長していったのである。
蝉しぐれが浄教寺村を覆(おお)い、ゆく夏の淋しさを感じるようになったある日、病床にあった勢源爺は枕元に小太夫を端坐(たんざ)させ、「今日から小次郎と名乗るように」と言い渡した。それから十四日目に勢源爺は、あの世へ旅立つのである。勢源は半年前から背中の激痛に悩まされが、その後痩せだし、息を引き取った時には骨と皮の状態であったという。享年七十歳。幸いなことに可愛い小次郎に看取られての往生であった。
慶長七年(1602)、落ち葉が風に舞う中、六十七歳で他界した養父景政の後を継ぎ富田道場の名目上の師範にあった富田越後守(えちごのかみ)重政は、藩政で何かと忙しい時期であるにもかかわらず、浄教寺村に百人の従者を連れて帰郷した。 養父景政、義叔父勢源の十一回忌として浄教寺村に二日間滞在したのである。
この時、重政は伝え聞いている小次郎の技量を試すため、従者の前原左門と間切り(ひぎり)試合をさせた。間切りとは、打太刀(先手)と仕太刀(後手)をあらかじめ決めておき、打太刀は仕太刀に対してどのような攻め技でも打って出てよいとされ、仕太刀は打太刀の攻めに応じて臨機応変の技を繰り出す試合である。
小次郎は一尺五寸の木刀を手にし仕太刀として道場たる庭に出た。
前原は定寸の木太刀を手にして小次郎と五間離れて向かい合った。
互いに会釈をして試合は始まった。
小次郎は右手の小木刀の切先を前原の左目につけた。前原は木太刀を八相に構え、腰をやや落として小次郎の反応をうかがっている。
蓑兵衛はかたずをのんでみまもった。
重政の従者達も同じである。
長い静寂の後、小次郎が左目につけた切っ先を下段につけると、二人の間合いが三間まで、ずささーっと詰まった。が、どうしても前原は打って出られない。その刹那(せつな)、重政は「それまで!!」と大声を発した。
前原は全身にぐっしょりと汗をかいて、目は虚ろになり、今にもその場に倒れそうであった。一方の小次郎は汗一つかいていなかった。
重政は、小次郎の技の切れに感服した。
前原の攻めの一手が出る前に、小次郎は相手のすべてを見切っていたのである。つまり、重政の高弟、前原左門がいかようにも攻めに入ってよいのだが、小次郎からの威圧に一瞬迷いを覚えて遅れをとり、すかさずとった小次郎の誘いの下段構えに対して驚き、またまた遅れをとり、遮二無二に打って出ようとしたが体が動かなかったのである。相対した瞬間に戦わずして前原の心身はバランスを失ったことになる。
その日、小次郎は富田派中条流の免許を重政から言い渡され、謹んで免許状と目録一巻を拝頂した。
翌朝、馬上の重政は小次郎に眼をやり、うなずくと、急ぎ金沢城への帰途についた。
その年の暮れ、富田道場を留守にしていた鐘捲自斎が江戸から戻ってきた。江戸では高弟の小野次郎右衛門の屋敷にしばらく世話になり、夜は兵法談義に花を咲かせ、昼には関ヶ原の役以降、急速に発展を続ける江戸城下の見学をして回っていたのである。まさに江戸へ江戸へと草木もなびくであるし、すでに日比谷海岸等の埋め立て工事が始まっており、神田山から日比谷までの往来は、土石を運ぶ人足でごった返しの状態であった。
一様の江戸見物を終えた自斎は、小野次郎右衛門に別れの挨拶をすませ、帰途の街道をゆるりと歩いていった。途中、武州高尾山薬王院有喜寺、甲斐恵林寺、信州善光寺に寄るなどして、久方ぶりに浄教寺村の土を踏みしめた時には、江戸を出立して三か月が経っていた。この後、自斎は定命が尽きるまで浄教寺村を離れることはなかった。二十歳で武者修行の旅に発たせた小次郎が帰郷するのを楽しみに、ひたすら待ちつづけたのである。
慶長八年(1603)、この年十八歳になった小次郎は、鐘捲自斎から一刀流の奥義「高上極意五点」の免許状を拝頂したのであった。
世に有名な「燕返し」という技は、小次郎が一乗滝や柳滝での修練で編み出した独自のものであったが、そのころにはまだその完成をみていない。
湯殿の用意が出来たとの禿(かむろ)の声で、我に返った小次郎は離れの湯殿へ向かい、脱衣をすませると、眼を閉じて檜(ひのき)の湯舟に顎(あご)までつかった…。
しばらくすると、透けるような白い長襦袢(ながじゅばん)一枚の香豆(こまめ)がすすーと入ってきて、湯舟から上がるよう促した。
片膝蹲踞(かたひざそんきょ)した香豆は、白い右腕を肘まであらわにしてマルセルシャボンを手にすると、小次郎の背を優しくゆっくりと擦(さす)りだした。
湯舟には朝靄(あさもや)のような白い湯けむりが浮かびおおっている。
香豆が小次郎をシャボンで擦る音と、時たま天井から湯舟に落ちる雫の響きが妙に溶け合っていた。
二人は無言のままでいたのだが……。
それでも二人の気は通い合い、何も話す必要はなかった。
つづく
「柳庵」座敷持ちの香豆(こまめ)によって、筆下しを得た小次郎は、女物の褞袍(どてら)を肩からはおり、障子を開けた…。
師匠の鐘捲自斎(かねまきじざい)から聞いた夜伽話(よとぎばなし)の通りであった。いや、それ以上であったかもしれない。
小次郎はこの初なる体験に、心地よい脱力感と静かな充足感とに満たされ、ふーっと白い息を吐いた。そして九頭竜川添いに並ぶ枝垂れ柳(しだれやなぎ)に眼をとめ、感慨にひたった。
母と別れ、浄教寺村の富田派中条流平法道場に、住み込みの弟子入りをしてから今日まで、十五年の歳月が流れていたのである。
入門した当時の道場主は富田景政(とだかげまさ)であった。しかし富田景政は前田利家公の兵法(ひょうほう)指南役として加賀にあり、また景政の婿養子重政も前田公長男の利長公の兵法師南役についており不在であった。そのため小太夫の剣術指導にあたったのは、富田道場の師範代であり「富田の三剣」といわれ、また鐘捲流(一刀流)開祖でもある鐘捲自斎であった。
小太夫の性根を叩きなおすべく、自斎のその稽古は壮絶を極めた。
その反面、眼病を患い剃髪し、道場を弟の景政へ譲り、隠居の身にあった富田勢源(せいげん)は、優しいお爺さん役に徹して小太夫を可愛がった。この飴と鞭による教育手段は、生まれつき癇(かん)が強過ぎて父親をも閉口させた小太夫が、健全たる子供として、そして青年として成長していく過程において、的を得た方法であったといえよう。しかし、その匙(さじ)加減は難しく、勢源と自斎のアウンの呼吸で緻密に練られた。
小太夫は勢源を「じいじい」とよんで慕った。それが時々口を滑らせて「じじい」と呼んでも罪はない。また、坦猿(のぎざる)の蓑兵衛(みのべい)も富田家に奉公人としての務めを許され、庭の掃除などの下働きについたことは、親里を離れた小太夫にとっては心強いものであった。
しかして小太夫の心の邪悪な部分は、自斎の厳しい剣術稽古によって抑え込まれ、また勢源爺による四書五経、茶道、華道、和歌等の手ほどきにより、おのずと文武を備えた兵法者になるべく、成長していったのである。
蝉しぐれが浄教寺村を覆(おお)い、ゆく夏の淋しさを感じるようになったある日、病床にあった勢源爺は枕元に小太夫を端坐(たんざ)させ、「今日から小次郎と名乗るように」と言い渡した。それから十四日目に勢源爺は、あの世へ旅立つのである。勢源は半年前から背中の激痛に悩まされが、その後痩せだし、息を引き取った時には骨と皮の状態であったという。享年七十歳。幸いなことに可愛い小次郎に看取られての往生であった。
慶長七年(1602)、落ち葉が風に舞う中、六十七歳で他界した養父景政の後を継ぎ富田道場の名目上の師範にあった富田越後守(えちごのかみ)重政は、藩政で何かと忙しい時期であるにもかかわらず、浄教寺村に百人の従者を連れて帰郷した。 養父景政、義叔父勢源の十一回忌として浄教寺村に二日間滞在したのである。
この時、重政は伝え聞いている小次郎の技量を試すため、従者の前原左門と間切り(ひぎり)試合をさせた。間切りとは、打太刀(先手)と仕太刀(後手)をあらかじめ決めておき、打太刀は仕太刀に対してどのような攻め技でも打って出てよいとされ、仕太刀は打太刀の攻めに応じて臨機応変の技を繰り出す試合である。
小次郎は一尺五寸の木刀を手にし仕太刀として道場たる庭に出た。
前原は定寸の木太刀を手にして小次郎と五間離れて向かい合った。
互いに会釈をして試合は始まった。
小次郎は右手の小木刀の切先を前原の左目につけた。前原は木太刀を八相に構え、腰をやや落として小次郎の反応をうかがっている。
蓑兵衛はかたずをのんでみまもった。
重政の従者達も同じである。
長い静寂の後、小次郎が左目につけた切っ先を下段につけると、二人の間合いが三間まで、ずささーっと詰まった。が、どうしても前原は打って出られない。その刹那(せつな)、重政は「それまで!!」と大声を発した。
前原は全身にぐっしょりと汗をかいて、目は虚ろになり、今にもその場に倒れそうであった。一方の小次郎は汗一つかいていなかった。
重政は、小次郎の技の切れに感服した。
前原の攻めの一手が出る前に、小次郎は相手のすべてを見切っていたのである。つまり、重政の高弟、前原左門がいかようにも攻めに入ってよいのだが、小次郎からの威圧に一瞬迷いを覚えて遅れをとり、すかさずとった小次郎の誘いの下段構えに対して驚き、またまた遅れをとり、遮二無二に打って出ようとしたが体が動かなかったのである。相対した瞬間に戦わずして前原の心身はバランスを失ったことになる。
その日、小次郎は富田派中条流の免許を重政から言い渡され、謹んで免許状と目録一巻を拝頂した。
翌朝、馬上の重政は小次郎に眼をやり、うなずくと、急ぎ金沢城への帰途についた。
その年の暮れ、富田道場を留守にしていた鐘捲自斎が江戸から戻ってきた。江戸では高弟の小野次郎右衛門の屋敷にしばらく世話になり、夜は兵法談義に花を咲かせ、昼には関ヶ原の役以降、急速に発展を続ける江戸城下の見学をして回っていたのである。まさに江戸へ江戸へと草木もなびくであるし、すでに日比谷海岸等の埋め立て工事が始まっており、神田山から日比谷までの往来は、土石を運ぶ人足でごった返しの状態であった。
一様の江戸見物を終えた自斎は、小野次郎右衛門に別れの挨拶をすませ、帰途の街道をゆるりと歩いていった。途中、武州高尾山薬王院有喜寺、甲斐恵林寺、信州善光寺に寄るなどして、久方ぶりに浄教寺村の土を踏みしめた時には、江戸を出立して三か月が経っていた。この後、自斎は定命が尽きるまで浄教寺村を離れることはなかった。二十歳で武者修行の旅に発たせた小次郎が帰郷するのを楽しみに、ひたすら待ちつづけたのである。
慶長八年(1603)、この年十八歳になった小次郎は、鐘捲自斎から一刀流の奥義「高上極意五点」の免許状を拝頂したのであった。
世に有名な「燕返し」という技は、小次郎が一乗滝や柳滝での修練で編み出した独自のものであったが、そのころにはまだその完成をみていない。
湯殿の用意が出来たとの禿(かむろ)の声で、我に返った小次郎は離れの湯殿へ向かい、脱衣をすませると、眼を閉じて檜(ひのき)の湯舟に顎(あご)までつかった…。
しばらくすると、透けるような白い長襦袢(ながじゅばん)一枚の香豆(こまめ)がすすーと入ってきて、湯舟から上がるよう促した。
片膝蹲踞(かたひざそんきょ)した香豆は、白い右腕を肘まであらわにしてマルセルシャボンを手にすると、小次郎の背を優しくゆっくりと擦(さす)りだした。
湯舟には朝靄(あさもや)のような白い湯けむりが浮かびおおっている。
香豆が小次郎をシャボンで擦る音と、時たま天井から湯舟に落ちる雫の響きが妙に溶け合っていた。
二人は無言のままでいたのだが……。
それでも二人の気は通い合い、何も話す必要はなかった。
つづく
