岸柳2
その青年の背丈は六尺を越し、袖なしの四つ目結(よつめゆい)の紋付陣羽織に裁付袴(たっつけはかま)という出で立ちで、戦陣用大太刀の拵(こしらえ)を打刀(うちがたな)風にあつらえ、その得物を背の右肩から左腰へ流し、胸から左腰へ回した下緒を、背にある鞘(さや)の責金物部(せきかなものぶ)で結んでいる。その歩く姿は周囲を圧倒し、一見して兵法者(ひょうほうしゃ)だとわかる。
面長で鼻筋は高く通り、切れ上がった目尻は奥二重である。
前一文字に絞められた口許は微笑んでるようにも見えるが、全体的に品良くまとまっており、女好きのする美男子といえる。
この青年の姓は佐々木、名は小次郎という。
七年後の慶長十七年(1612)四月十日、船島で宮本武蔵と決闘することになる、あの岸柳流・佐々木小次郎である。
その青年が、なぜ勝山にやって来たのであろうか。
青年の足取りを、生い立ちから探ってみよう。
小次郎は越前今立の浄土真宗高善寺の第十六代住職、宗善の六男として生を得、幼名を小太夫と名付けられた。宗善の五代前の住職は教光坊善空である。善空は平安時代 末期、源頼朝 の挙兵を助けたことで有名な近江蒲生の佐々木四兄弟の末弟・佐々木四郎高綱の子孫にあたる。
小太夫は生まれた時から癇(かん)が強く、夜泣きは勿論のこと、いったん泣き出したら相当の間は泣き止むことがなかった。またよく風邪をひき高熱をだしてはヒキツケをおこして意識を失うことも度々あった。
「ご子息は腺病質(せんびょうしつ)なので、命は五歳までもてばよい方だ…定命を伸ばすには、ご法度の獣肉や牛の乳を与えることです」
と阿蘭陀医学を学んだ医師からいわれた。
住職宗善は、口入れ屋の口利きにより、越後の坦猿(のぎざる)を奉公人として雇い入れ、秘密裡に熊、鹿、猪、牛、馬等の肉を小太夫に食させ、また牛の乳を水替わりに与え続けた。その甲斐あって小太夫は、みるみる元気に育ち、体も同年代の子より一周りも二周りも大きくなった。
しかし五歳になると、生まれながらの聞かん気が増長し、近所の子供と喧嘩沙汰を起こすことが頻繁になり、近隣の親御からの苦情が絶えない状況が続いた。
とうとう宗善は倅小太夫の身も心も、坦猿を紹介してくれた浄教寺村の富田派中条流平法(へいほう)道場の隠居・富田勢源(とだせいげん)に委ねることを決意した。
この時代、どの階層の家でも、家督を相続するのは長男である。長男以外の男子は養子の口が決まらない限りは、その家で居候させるしかない。宗善は、僧侶になるには不適であろう六男の小太夫に、父親としての愛情も込めて早めに見切りをつけたのではあるまいか。
見送りに来た母、兄者達は、小太夫と坦猿の蓑兵衛(みのべい)が見えなくなるまで、手を振った。五歳の小太夫にとって母との別れは辛いものである。一度振り返ったときは元気に笑って手を振ったが、二度目は足を止めると眼には熱いものが溜まっていた。にわかに小太夫は走って帰りたい気持ちにおそわれた。と、蓑兵衛は小太夫の手を強く握り歩き出した。街道から林道に入ると、小太夫は蓑兵衛の歩く背に負ぶさって涙が枯れるまで泣いたのであった。
つづく
岸柳
酒が程良く利いているのか、正月の夜風がやたらと爽やかである。
脇屋菊治と太田織之亟は無言のまま遊里に入った。
何軒かの切見世を通り過ぎると、藁葺きの簡素な門に岸柳庵と書いてある表札が目に入った。
「ここだな…」
「おう」
門を入り母屋玄関前で立ち止った二人は姿勢を正した。
岸柳庵という名の通り、門から母屋までの三間ほどの両側は枝垂柳である。
二人は頭巾を外しどちらともなく声を発した。
「御免下さい」
この場合、侍は「御免」でよい。
あんこ力士タイプの福よかな遣手(やりて)が現れた。
前髪の二人を見た遣手は頷いて、うながすように
「おこしやす、どうぞお腰を下しやっしゃのぅ」
二人の下女が素早く片膝蹲踞して二人の草鞋・足袋を取り、持ってきた湯樽に夫々の足を導くと丁寧に濯ぎ、手際よく拭った後、新しい白足袋を用意してくれた。
「ほな、どうぞ奥の間へ」
「…」
二人は書院造の畳間に通され端坐した。
忘八(ぼうはち)の挨拶が終り、二人の前に大名御膳が運ばれると、三味線や太鼓の音が次の間から響きだした。
板敷の次の間が、スルスルと余韻をのこして開くと、歌にあわせて舞妓の踊りが始まったのである。
続いて芸妓が登場して京の舞を踊っている。
脇屋も太田も生まれて初めて目にする光景に圧倒され声も出なかった。
それはまるで幼い時に聞かされた御伽話、龍宮城の浦島太郎である。
いつの間にか二人の横にはそれぞれ禿(かむろ)を連れた座敷持が侍っているではないか。
気づいた二人に、紅色の唇から艶やかなお歯黒を覗かせて微笑んだ。
「ほな、一献よろしおす」
いわれるままに杯に注がれる酒を、ぐいぐい飲み乾す二人であった。
ここで筆者は、遊郭「岸柳庵」の云われと、越前今立(現在の福井県越前市北坂下町)出自の一人の青年剣士について書いておきたい。 その前に、白山神社平泉寺について触れておく。なぜなら遠い遠い昔、白山の神をあがめる平泉寺が開かれた事が、その地方つまり勝山の地が栄える基盤になったと充分に考えられるからである。
不可思議な自然現象をおそれ八百万の神々を尊びあがめる日本固有の神道は、太古から民衆の信仰として根づいていた。
古墳・飛鳥時代の西暦552年、仏教が日本に伝来した。
それは朝廷や貴族そして渡来人だけの宗教として信仰された。
しかも僧侶の任命権は摂政が持ち、一般民衆への布教を禁じている。
聖徳太子の没後まもないころにおこった修験道は、神道の立場から仏教を考察し、仏教の妙味を消化し、神仏不二を基本とした日本独特の山岳信仰である。
修験者(山伏)は民衆の側に立ち神仏一致を唱え、仏教をひろめるべく朝廷、貴族と対立、官憲の武力に対しては僧兵を育成し反抗をつづけた。
他方、朝命に反し、関西中心に民衆や武家へ、禁じられている布教活動を熱心につづけたのは僧侶行基(ぎょうき)である。
ようやく民衆の圧力に屈した朝廷は、行基を伊勢神宮に参詣させ、神仏一致を表明した。このときから修験者と官憲の永く続いた武力衝突は沈静化へむかった。
そうした中、越前麻生津の地で豪族三神安角の次男として生を得た泰澄(たいちょう 幼名法澄))は、十四歳で出家、越智山に籠り修験道を学んだ。そして神仏一致「八百万の神々は、仏が化身として地に現れた権現(ごんげん)である。現世においては、人事を尽くして天命を待つの姿勢を大事にしなければならない」との悟りを会得した。
大宝二年(702年)三十歳になった泰澄は文武天皇から鎮護国家の法師に任ぜられている。
飛鳥の都が平城京に遷されてまもないころ、泰澄は母親の郷里の近くに位置する白山御手洗(みたらし)の池で、十一面観音のお告げをうけ、その泉の傍で更に数年の修業を重ねた結果、瞑想中にイザナミの化身、九頭竜王との対面をはたしたのである。これにちなみ寺の建立を決意、名を平泉寺と決め、民衆が白山へ登るための禅定道の入口にあたる拠点を、寺の建立置とさだめた。
やがて、白山登拝に訪れる人々を受け入れるための門前町が広まり、それが町を形成していったといっても過言ではなかろう。
時代は、奈良・平安・鎌倉とすすみ、室町時代に入ると平泉寺は最盛期を迎える。その平泉寺内には、四十八社、三十六堂、六千の坊院(お坊さんの住居)、僧兵八千人の軍事的な巨大宗教都市を形成した。
つづく
いざ出立
明日から始まる左義長まつりの追い込みの稽古であろう。
「脇屋、前から気にしておったのだが、女将は京言葉と土地の話し方と混ざっておるの」
「ん、聞くところによると先代の女将は京出自と聞くなー」
「女将と話してると何とも気持ちが癒されるよな」
「先代の女将が来てからは板甚のまわりの料亭、宿場それに遊里まで京言葉を好んで使うようになったとな」
脇屋は用意されてある煙管にキザミを詰め火鉢にもっていき吹かしだした。いかにも慣れた手つきであったが、いきなりむせてしまい煙管の先を五徳に軽く叩いてキザミを炭火へ落とした。
「太田、江戸表ではこういう吸い方をするそうな」
「おう、粋だなー」
京都・大坂・江戸いや全国で煙管の使い方に大層な差があるハズがない。
ほどなく
「ごめんやす、おまっとうさんどすの」
「おぅ」
片膝蹲踞して障子を開けた女中二人が夫々に大名膳を両手にかざしてスルスルと入ってきて、二人の前へ置き三つ指をついた。
「お初にお目にかかります。つね、ともうします。よろしゅう おたのもーします」
「お初にお目にかかります。きね、ともうします。よろしゅう おたのもーします」
「女将がおだしするようにと、板長はんのながたんによる鯛の活きづくりですのう」
「今朝、東尋坊でとれたものをお馬はんの早駆けで届いたのですによって」
尾頭付である、刺身になった部分はまだピクピクと動いていた。
「いや、これはかたじけない」
「ほな、一献お酌しまひょ」
脇屋も太田も杯の扱い方には慣れていた。
上体・顔はそのままにしてスーと杯を口へ持っていき、顎を少し上げ呑みほした。
そしてその手を女中の方へ差し出した。
「さあ、一献、返杯じゃ」
「ほんまどっか、ほんまにおおきんのう」
といいながら二人の女中は、かかとの上の尻を畳にずらせてから、ぬめっとした白い両腕を袂からあらわにして、つがれた酒を少しずつ舌で転がすように呑みほした。
「じょろしねまね」
土地の言葉で足を崩してあぐらをかきなさいと女中はうながした。
「いや、連れとわめは、これから半刻してお役につかねばならない」
半刻とは現代の約1時間である。
「打ち合わせもあるし、すまぬが、連れと二人にしてくれないか」
脇屋も太田も懐紙を出してそれぞれ一朱銀を包んで女中に渡した。
「えらい気ーつこーてもぉて すんまへんな、そないします」
「それで、女将に伝えてほしいのだが、帰りは裏木戸から出るのでと」
「料理代は付にしておいてくれとな」
「へぇ、わかりまいた」
「ほな、おおきに。また寄ったっとおくれやっしゃす のぅ」
片膝蹲踞して障子を開けて女中は部屋を後にした。
衣擦れの音が遠ざかっていく。
「いい女子だなー、杯をあけた後の歯黒めが何ともいえぬのう太田」
「ん、いー女子だ。いつから奉公してるんだうな」
「最近じゃないかな…、太田、おきねの方は顔つきがおチカに似ておったのう。儂はおつねが気に入ったぞ、お役目が済んだら暇をみてしばらく通うことにする。むろん食事と酒だけだ…料亭だからのう」
「わめは遠慮しておくぞ」
「…」
二人に出された刺身はあっという間になくなった。
「ところで太田氏、昨日、儂は兄者に聞いたのだが、殿から指定された岸柳庵という茶屋は座敷持の形式だそうだ。別棟に風呂1・湯殿2の備えがあるそうじゃないか。いずれにしても一緒に入って背中を流してくれるということだ」
「そうか、それは堪ったもんじゃないなー。そこで二日間かー」
「よし太田氏、出立するか」
「よし」
二人は、冬用の頭巾をかぶり裏木戸を出た。
ほろ酔いかげんで後町と郡町の境の通りを過ぎ、九頭竜川沿いの町中に足を運んだ。
つづく