広隆寺の国宝彫刻(仏像) | 関西の国宝建造物と国宝彫刻(仏像)のすべて

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関西は国宝建造物と国宝彫刻(仏像)の宝庫です。私がこれまで訪れたそのすべてをご紹介していきます。現在頑張って制作中です

広隆寺は国宝彫刻(仏像)を6件保有するお寺です。

 

ここには私の大好きな弥勒菩薩があります。

見ているだけで心が洗われるような気がします。

 

基本仏像は写真撮影禁止ですので、ウィキペディアから写真をお借りしています。

 

広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。

ウィキペディアより

 

霊宝殿安置

Kôryû-ji Temple - Reihô-den.jpg

霊宝殿

 Yanajin33 - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

 

木造弥勒菩薩半跏像 もくぞうみろくぼさつはんかぞう

 

Maitreya Koryuji.JPG
By 小川晴暘 上野直昭 - 上代の彫刻,朝日新聞社、昭和17年, パブリック・ドメイン, Link

 

広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち、「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。

像高は123.3センチメートル(左足含む)、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、元来は金箔でおおわれていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。右手の人差し指と小指、両足先などは後補で、面部にも補修の手が入っている。。

制作時期は7世紀とされるが、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説があり、決着を見ていない。この像については、韓国ソウル韓国国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘される。

第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。

朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から請来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと言われている。

『広隆寺資財交替実録帳』の金堂の項をみると、安置されている仏像の中に2体の「金色弥勒菩薩像」があり、1体には「所謂太子本願御形」、もう1体には「在薬師仏殿之内」との注記がある。「太子本願御形」の像が宝冠弥勒であり、「在薬師仏殿之内」(金堂本尊薬師如来像の厨子内にある)の像がもう1体の宝髻弥勒にあたると考えられている。

 

私はこの像と奈良の中宮寺の菩薩半跏像を見ると美智子皇后様を思い浮かべてしまいます。

すべてを覆いつくすような表情がたまらなく好きで、心が癒される仏像です。

 

木造弥勒菩薩半跏像 もくぞうみろくぼさつはんかぞう

 

Maitreya2 Koryuji.JPG
By 飛鳥園 - 東洋美術特輯  日本美術史 第2冊、, 奈良, パブリック・ドメイン, Link

 

像高90センチメートル(左足含む)、坐高66.4センチメートル。「宝冠弥勒」と同様のポーズをとる、像高はやや小さい半跏像である。朝鮮半島には現存しないクスノキ材製であるところから、7世紀末~8世紀初頭頃の日本製と見られるが異説もある。沈うつな表情で右手を頬に当てた様子が泣いているように見えることから「泣き弥勒」の通称がある。

 

木造不空羂索観音立像 もくぞうふくうけんさくかんのんりゅうぞう

 

 

 

Amoghapasa Fuku Kensaku Kannon Koryuji.JPG
By NEIRAKU-HAKKO-SYO - NEIRAKU-HAKKO-SYO ed., NEIRAKU 13th vol., 19, August, 1930, パブリック・ドメイン, Link

像高313.6センチメートル。霊宝殿に安置。新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の東北隅にあった。奈良時代末~平安時代初期(8世紀末~9世紀初)の作。『実録帳』の金堂の項に「本自所奉安置」(弘仁9年・818年の広隆寺の火災以前から安置されていた、の意)として7体の仏像が列挙されているが、そのうちの「不空羂索菩薩檀像」とあるものに該当する。

 

木造千手観音立像 もくぞうせんじゅかんのんりゅうぞう

写真ありません

 

像高266.0センチメートル。霊宝殿に安置。新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の西北隅にあった。もと講堂に安置され、現在は霊宝殿に安置。平安時代初期、9世紀の作。

 

木造十二神将立像 もくぞうじゅうにしんしょうりゅうぞう

 

Twelve Generals Koryuji.jpg

木造十二神将立像のうち珊底羅(宗藍羅)像
By Minamoto Hoshu - An illustrated history of Japanese art (Kyoto: Hoshino 1935), パブリック・ドメイン, Link

像高は113 - 123センチメートル。霊宝殿に安置。『広隆寺来由記』によれば、康平7年(1064年)、仏師長勢の作。長勢は定朝の弟子にあたる。12体の作風はいくつかのグループに分かれ、12体すべてが長勢の作とはみなしがたい。片目をつぶり、矢の調整をしているさまを巧みに表現した安底羅大将像など数体が長勢の作に帰されている。12体の像名は以下のとおり(玄奘訳『薬師経』による名称。括弧内は広隆寺で用いている表記)。宮毘羅大将(金毘羅)、伐折羅大将(和耆羅)、迷企羅大将(弥佉羅)、安底羅大将(安底羅)、頞儞羅大将(摩尼羅)、珊底羅大将(宗藍羅)、因達羅大将(因陀羅)、波夷羅大将(婆耶羅)、摩虎羅大将(摩虎羅)、真達羅大将(真陀羅)、招杜羅大将(昭頭羅)、毘羯羅大将(毘伽羅)。

 

講堂安置

広隆寺講堂

木造阿弥陀如来坐像 もくぞうあみだにょらいざぞう

 

Koryuji Monastery Amida of the Kodo (272).jpg
By Imperial Japanese Commission to the Panama-Pacific International Exposition - Japanese Temples and their Treasures (The Shimbi Shoin 1915), パブリック・ドメイン, Link

講堂本尊。像高261.5センチメートル。両手を胸前に上げ、説法印を結ぶ。『資財帳』及び『実録帳』の講堂の項に「故尚蔵永原御息所願」とある像に該当し、承和年間(840年頃)の作とみられる。永原御息所とは淳和天皇女御の永原原姫である。巨大なヒノキの一材から頭・体の根幹部を彫出し、像表面には厚く木屎漆を盛り上げて整形している。二重円相の光背と裳懸座は一部に後補があるものの、当初のものを残している。

 

 

広隆寺は他にも見どころいっぱいのお寺ですよ。

嵐山からも近いので観光の際はぜひお立ち寄りください。

 

拝観

 

拝観時間

午前9時~午後5時

(12月~2月は午前9時~午後4時30分)

 

拝観料

 

境内自由

霊宝殿  大人 700円 高校生 500円 小・中学生 400円

 

所在地

 

京都市右京区太秦蜂ヶ岡町32

 

TEL 075-861-1461

 

駐車場 あります 無料

 

アクセス

 

電車・バス

※JR 太秦下車 徒歩約13分
※市バス 太秦広隆寺前下車 徒歩約1分 

※京都バス 太秦広隆寺前下車 徒歩約1分

 

 

 

 

 

広隆寺桂宮院本堂(こうりゅうじけいきゅういんほんどう)

 

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