漢方堂だより

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新聞の記事を読んでいたら、土木学会の推計では、もし南海トラフの巨大地震が連動して起これば、その直接被害と復興までにかかる費用の総額は1410兆円となり、日本の国家予算の15倍にもなるということだ。

 

それは日本の経済の破綻を意味しており、巨大地震によって医療・福祉制度や年金制度も立ち行かなくなることを意味している。当然、ハイパーインフレで預貯金も紙くず同然になってしまう。

 

巨大地震がいつ起こるか分かれば準備のしようもあるが、今のところ科学では地震の予知はできないし、予知できたところで防ぐことがて切るわけでもない。自然の脅威の前では人間の力はほとんど無力である。

 

巨大地震はいつ来てもおかしくない。明日来るかもしれないし数十年後かもしれないが、近い将来必ず来るのは確かである。多くの人は不安を感じながら生きている。

 

 

 

 

不安を感じても自分の力ではどうしようもない時、たいていの人は不安から目をそらし、なるべく考えないようにして生きてゆく。幸い、日本では気晴らしや夢中になれる刺激やゲームなどがいくらでもある。夢中になれるものは人によって違うが、仕事やゲーム、恋愛などに夢中になっていれば、漠然とした不安は残っても不安を感じることなく生活できる。

 

星 作家の五木寛之先生はエッセイの中で、そうした状況を心肺停止にもじって、日本人は心配停止状態に陥っていると言っている。

 

東北地震とそれに続く原発事故は日本国民に大きな衝撃を与え、いつ何が起こってもおかしくないという意識をもたせ、それまでの生き方を見直す機会となった。それまでの生き方を変えたり、田舎暮らしを始めたりする人も多かった。

 

しかし、東北地震から7年以上の歳月がたった現在、実際に被災した人以外は、原発反対運動も下火になり、日本人の心も以前と変わらぬ日常に戻ってきている。

 

星 先の事を思いわずらうより現実の生活が大事だが、天災は忘れたころに突然やってくる。

 

社会不安は今に始まったことではない。ずいぶん前から東京に巨大地震が来るといわれていた。すでに50年近くも前に巨大な地殻変動によって日本が沈没するという、小松左京の「日本沈没」という小説が大ベストセラーになっている。

 

 

 

      

 

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もちろん、私自身は、「不安から目をそらさず、死ぬ時悔いが無いように生きるべきだ」とか、「死後の世界を信じた方がいい」とかいうつもりはさらさらない。巨大地震を前にどうすべきかには答えはないので、自分で決めるしかない。

 

ただ、直接、巨大地震の被害を受けなかったとしても、巨大地震によって日本の社会が大きく変化するのは間違いないので、そうなったときどうするかは考えておいた方がよいだろう。

 

星 おそらく南海トラフ地震の後は、敗戦直後のような混乱が続くだろう。その意味では、一日一生の思いで生きた方が好ましいとは思う。

 

巨大地震によって日本経済が破たんすれば、終戦後の日本のように大混乱に陥るかもしれない。それを政府や地方自冶体のせいにするのは酷だと思う。地震の予知もできない上、少ない予算ではできることは限られている。地震にかぎらず気象異常による集中豪雨などで、日本のどこに行っても安全な場所はない。

 

たとえ巨大地震が予知できたとしても、発表すれは大混乱が起こるので、発表しない可能性もある。皇族や一部の政治家だけどこか安全な場所に逃げるだろう。心配なら地震のない海外に移住するしかない。

 

巨大地震が起これば物価は急騰し、戦後のように食糧難なるだろう。まず株価が暴落し、貨幣価値が下がり大切な預貯金も紙切れ同然になるかもしれない。また対外的には極端な円安となって、海外からの物資輸入もできなくなる可能性もある。人が一番不安を感じるのは、まともに食べられなくなった時だ。飢餓は死に直結するからだ。

 

極度の不安状態は人々を狂信に導くことがある。不安はやがて怒りに変わり、行動力のあるカリスマ政治家や、社会の立て直しや理想社会の建設を説く宗教家を待望し、そうした人物を熱狂的に受け入れるかもしれない。

 

経済的困窮の続く緊急時には、人は冷静な判断ができなくなり、経済さえ立て直してくれ食べさせてくれれば誰でもいいという心理なりがちだ。なるべく早く経済再建するためには、独裁体制や国家社会主義の方がトップダウンで政策を決めやすいので、独裁者や一党独裁が求められる。

 

 

 

 

私が学生だった頃、「俺たちは水槽の中の金魚見たいもんだ」と自嘲的に言っていたことがある。どういう意味かというと、金魚は一見、きれいな服を着て水槽の中を自由に泳いでいるように見えるが、実はそうではない。なぜならまっすぐ進むと、見えない透明な壁にぶつかってしまうからだ。そのため金魚は何度も壁にぶつかると学習し、見えない壁の直前で反転するようになる。

 

中には、自由を求めて水槽から飛び出そうとする、勇気のある金魚がいるかもしれない。だが、当然のことながら、水槽から跳び出した金魚は生きてゆけない。つまり、自分たちは与えられた自由の中で泳ぐ、金魚のような存在というわけである。

 

たてまえの上ではわたしたちは、職業選択の自由もあるし、好きなことをして生きてゆくこもできる。しかし、わたしたちの多くは自由に生きていないし、先行き不透明で何が起こってもおかしくない社会で、多くの人があせりや不安に追われ、欲得づくの自己中心的に生きている。

 

わたしの学生時代の頃に比べると、経済格差も開き、社会に漂う閉塞感も格段に増しているようだ。成功している言われる人も、常に厳しい競争や人間関係に疲れているように見える。何をやっても楽しくない憂鬱な社会で、無差別殺人や衝動的な犯罪や、自殺や社会不適応をおこし心を病む人も増え続けている。そうした日本人の閉塞感やイライラから、いじめや引きこもりが増え続けるのは必然的なことである。

 

星 このままいくと社会に何か大きな変化があれば抑圧された日本人の無意識が戦前の日本のように、危ない方向に向かうのではないかと危惧している。

 

 

 

    

 

 

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わたしの学生時代は高度成長期にあり終身雇用制や年功序列制も機能していて、国や家庭や企業が生きる意味や価値観を与えてくれた。だが、現在の日本ではこれまでの社会体制やモラルが崩壊し、混乱と無秩序のなかにある。そのため、わたしたち一人ひとりが、自分で生きがいや価値観を見つけるしかなくなってしまった。 

  

星 では、どんな状況でも受け入れられ、生きがいを持って生きるにはどうすればいいのだろうか?

 

残念ながら、のところ、こうすべきといった決まった答えはないようだ。それぞれが自分自身で生きがいを求め見つけるしかない。大きな変化を求めないなら理想を追わず与えられた現状の中で、社会に適応し努力・工夫をすればいい。あるいは、現在の主要な価値観である、社会的な成功や経済的な豊かさを第一と考えて生きてゆくのもいい。

 

もちろん、人生の意味を求めて、精神的な自分探しの旅を続けるのもいい。どういう選択をするかは、自分自身で決めるしかない。真理に至る道には一つではなくいくつもある。それぞれ向き不向きがあるので自分の好みで選べばよいと思う。自分の選択が正しいかどうかは、真剣にその道を進めば本能的に分かってくるものだ。選択が間違いだったと感じたら、違う道を選び直せばいい。

 

同じ目標や道を選んでも、結果は人によって違ってくる。真剣さや努力、反省、決断、あるいは運によって左右される。 

 

 

 

 


わたし自身は競争社会にうまく適応できずに、ヨガや密教の神秘主義にのめり込んでいった。だが、今にして思えば、それは現実逃避だったのかもしれない。狂気と悟りは紙一重だといわれるが、神秘体験や無意識の世界はワクワクするが、理性が働かず自分の意志で心をコントロールできない。無意識の世界は、神々と魑魅魍魎が混在し、時として人を狂気にも陥れる光と闇が共存する魔境だった。

 

オウムが失敗したように、ヨガの覚醒や神秘体験は悟りをもたらさないと思う。わたし自身は身の危険を感じて無意識の世界から逃げ出したが、行くところまで行くべきだったのではという後悔の念もある。幸か不幸か、当時のわたしにはそこまでの覚悟はなかった。

 

 

古代インドには、理想の人生観として四住期という考え方があった。人生を四つの時期に分けて、違った価値観で生きてゆくのだ。つまり、四住期とは人生を①学生期 ②家住期 ③林住期 ④遊行期に四分割し、それぞれの時期の目的や価値観で生きることを理想の生き方と考えるのだ。

 

①学生期・・将来に備えて体をきたえ、学問、技術、教養を身につける時期

②家住期・・職業を持ち、家族を営み子供を育てる時期。

③林住期・・社会的な勤めを果たし、束縛から自由になって自分の人生を静かに見つめる時期

④遊行期・・家を捨て死に場所を求めて、放浪と祈りの生活を続ける時期

 

 

この四住期はバラモン階級など上流階級の考え方であり、一般の庶民の価値観とはかけ離れていたが・・

 

人生も折り返し点を過ぎ下り坂になる林住期になったら、第一線を退き会社や家族のためでなく、社会のしがらみから離れ、自分のために生きたいものだ。だが、それはあくまであこがれであって、実際に実践するのは簡単なことではない。現代の日本に四住期の価値観をそのまま当てはめることはできないし、クリアすべき現実的な問題も多い。

 

まずはお金の問題だ。自分のために生き、人目を気にせずやりたい事だけに専念するためには、働かなくても暮らしていける程度の蓄えが必要だ。だが、いつ死ぬか分かっていればいいが、平均寿命が大幅に伸び、予想以上に長生きしてしまうかもしれないので、いつから自分の林住期を始めるか迷う所だ。

 

 


 

 

長生きすれば身体の衰えは進み、人の世話を受けなれはならなくなる。医療費や介護費用もかかるので、年をとっても働けるうちは働く方がいいという考え方もある。

 

少子化の影響もあってか、日本社会では定年後も続けて働くことが期待される。また、若さを価値あるものとする社会風潮があるので、いつまでも第一線で頑張り続け、老化を受け入れずアンチエイジングに励む人も少なくない。もっとも、テレビやマスコミはいつまでも若く元気な老人を称賛するが、それには年配者に健康食品や高価な物を買わせたいという思惑が見え隠れするが・・

 

                               クローバー

 


やりたい事を我慢して老後の生活や家族のために、定年を過ぎても働き続けるか、先のことなど考えずやりたい事に専念するか迷う所だ。先のことは誰にも分からない。国も自分もいつどうなってしまうか予想もつかない。残された人生を悔いないように野垂れ死覚悟でやりたい事をやるか、社会の求める価値観にうまく乗って深刻に考えず楽しく生きてゆくか、どちらを選ぶかが問題だ。

 

両方を並行してやってゆくという手もあるが、多くの場合はどちらも中途半端に終わることが多い。

 

最終的には、その人の価値観次第ということになる。先行きの不安があり、安全の保証されない冒険を勧める気はない。やりたい人がやればいいのだ。それに、生れつきの性格やそれまでの生き方の違いから、やる人は家族や友人が止めても理想を追い続けるだろうし、やらない人は人がいくら勧めても決断できないだろう。

 

星 そのうち時間が過ぎ、何かを始める元気もなくなってしまい、死ぬ時、後悔するかもしれないが、それも仕方がない。

 

星 何を求めるかは、人によってそれぞれ違う。神のお告げを聞いて、私財を投じて自分一人の力で大仏を作った人もいる。

 

 

 

    

 

 

 

だが、金銭的な問題と同じくらい深刻なのは、仕事をリタイヤしたり子育てが終わったりすると、やりたい事が何もないという場合だ。旅行も趣味も最初のうちは楽しいが、だんだん刺激が無くなって飽きてしまう。やりたい事が無く、時間だけがあるというのもかなり苦痛だ。十分なお金があれば気晴らしもできるが、年金暮らしではそんなに生活の余裕がない。庶民にとって林住期の思想は、日本でも理想論に過ぎないのかもしれない。

 

星 田舎暮らしにあこがれ都会から移住しても、実際に暮らしてみると人間関係のわずらわしさや、冬の厳しさに耐えられず都会に戻る人も多い。頭であこがれるだけで、本当は田舎暮らしが好きではなかったということだ。

 

                              クローバー

 

もっとも大多数の人たちはわたしより現実的なので、そんな非現実的なことでは悩まないだろう。リタイアして目標を失い一時的にうつになっても、現実を受け入れ自分の置かれた境遇にしぶとく適応していけると思う。どんな生き方をしようと、それは国策で決めることでもないし、他人がとやかく言うことではない。元気なうちに人生を楽しみ、いつまでも元気でぽっくり逝けるのが多くの人の望みだろう。

 

星 そういう私自身も頭では理解しているが、林住期の理想を追求して野垂れ死する覚悟があるわけではない。

 

どんなに元気な人でもいつかは老化の影響で、体力も落ちるし記憶力も低下し、今までの生活が続けられなくなる。過去の人生にしがみつかず、新たな人生を受け入れるべきだが若さや現役に執着が強ければ強いほど、葛藤し苦しむことになるようだ。できれば、なるべく若く、元気で余力があるうちから、引退後の新たな人生をどう生きるかを考えて、準備しておきたいものだ。