今日は
興国寺
こうこくじ。
アクセスは
JR「長岡」駅徒歩18分。
関越自動車道「長岡IC」から約6.5km。
関越自動車道「長岡南越路スマートIC」から約10km。
北陸自動車道「中之島見附IC」から約13km。
※写真は8月中旬撮影
興国寺
新潟県長岡市千手2-3-43
曹洞宗の寺院で
御本尊は
上品上生阿弥陀如来。
長岡花火発祥の地
八幡神社の
隣にあります。
境内
もともとは
興国寺は
浄土教系寺院で
興国庵
と称していたそう。
本堂
1646年
越後長岡藩家老で
牧野頼母家当主の
牧野正直(市右衛門)が
大檀那となって
広大な堂宇を建て
曹洞宗僧侶の
方外雲吉を
開山として再建。
扁額
興国寺
と改称した
とのこと。
史跡(小林虎三郎の墓)
境内には
「米百俵の精神」
で有名な
長岡藩士で
北越戊辰戦争後
長岡復興のために
尽力した
小林虎三郎の墓が
あります。
案内板①
小林虎三郎は
1811年
長岡藩士の家に生まれ
16歳のときに
江戸へ出て
佐久間象山のもとで
西洋の学問や思想に触れ
明治維新後の
近代日本を担う
人材になることを志し
ペリー来航の際
象山とともに
横浜開港を
主張したことで
長岡藩から
処罰を受け
藩の封建的な体制に
批判的になったそう。
案内板②
明治維新後
長岡藩の
大参事となり
長岡の復興に尽力。
戊辰戦争後
長岡は荒廃し
人々は飢えと貧困に
苦しむ中
虎三郎は
長岡の町を
復興するためには
教育が重要である
と説き
長岡藩の支藩から
送られた
米百俵を売却して
国漢学校を設立。
この話は後に
山本有三による
戯曲となり
米百俵
として有名に。
小林虎三郎・雄七郎墓所①
虎三郎は
1877年死去後
東京の谷中墓地に
葬られましたが
1959年
小林家の
菩提寺である
興国寺の住職が
その遺徳を偲ぶため
虎三郎と
弟雄七郎の遺骨を
ここに移したそう。
小林虎三郎・雄七郎墓所②
お墓の前で
虎三郎の偉業に
思いを馳せ
手を合わせると
人は死ぬまで
正確にいえば
死んだ後もだが
学び続けなければならぬ。
まずは自分のため。
次にみなのため。
そして世を変えるため。
勉学に励まれよ。
応援している、と。
はい!
火炎土器モニュメント
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