サントリー美術館で開かれている

河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」展に行った。

(会期~3月31日)

河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)といえば、

 

天保2年(1831) - 明治22年〈1889)

幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。

号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。

それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。

狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、

自らを「画鬼」と称した。その筆力・写生力は群を抜いており、

海外でも高く評価されている。(Wikiより)

 

     暁斎主要画系図
 

暁斎は、7歳で浮世絵師・歌川国芳のもとで修業を始めた。

その後、狩野派の前村洞和やその師匠、狩野洞白陳信に入門し、独立後は「狂斎」と号し、

戯画などで人気を博した。

そして明治3年(1870)、書画会で描いた作品が貴顕を嘲弄したなどとして投獄され、以後

号を「暁斎」とした。

 

明治政府を茶化したような風刺画によって、暁斎は反骨の人というイメージで語られるが、

しかし、それは政府に対する強い反発ではなく、あくまでも、慣れ親しんだ江戸文化への思慕であったと考えられている。

 

江戸幕府の終焉とともに狩野派は衰退していくが、暁斎は狩野派絵師としての自負を持ち続ける。暁斎の高い絵画技術と画題に対する深い理解は、日々の修練と古画の学習を画業の基礎とした狩野派によって支えられたものだった。

 

明治以後の日本建築界の基礎を築いた日本政府雇上げのイギリス人建築家コンドルは

暁斎に師事して日本画を学んだ。

 

(展示構成)

第1章 暁斎、ここにあり!

第2章 狩野派絵師として、

第3章 古画に学ぶ

第4章 戯れを描く、戯れに描く

第5章 聖俗/美醜の境界線

第6章 珠玉の名品

第7章 暁斎をめぐるネットワーク

 

ここで、又、図録により印象的な絵画を記録しておきたい。

 

 

 

 

気品のあるご尊顔。

 

    暁斎はカエルが好きだった。他にもカエルを使って描いた絵画が結構あったのだった。

 

 

蒙古来襲

 

 閻魔大王も美人の色香に弱かった(笑)

 

  暁斎の猫の絵画も興味深い。

 

 

  湯島天神や深大寺にもあったのだった。

 

 鹿鳴館ー暁斎の美人画は、心持、浮世絵にあるようなひき目かぎ鼻でないような気がした。

 

イギリス人の弟子コンドルは、あごひげと胸毛をを例に毛の描きを書き留めていた。

 

「短く粗い毛を描く際は毛の太い丸筆を用い押し広げた筆の先端のみを、

乾いたら、墨に帰って割れた筆先が複数の線を描く」

 

暁斎は、水墨と着色の両方を駆使し、仏画・花鳥図・美人画など

多岐にわたるジャンルで優れた作品を残した。

 

今回の美術鑑賞は同窓生の美術愛好家の方々とご一緒だった。

鑑賞中はそれぞれに静かに鑑賞した。

鑑賞後、東京ミッドタウンでお茶した。楽しいひと時を過ごした。

公式サイト

 

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