東京都美術館では、次に

没後50年 藤田嗣治展」に行った。

 

これまで、没後50年 藤田嗣治展の作品は、断片的ではあるが、

日本のさまざまな美術館やパリ、アメリカの美術館で鑑賞してきた。

 

だから、この展覧会に行くのをためらったが、

NHK総合テレビ

 「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~」、

NHK Eテレで「知られざる藤田嗣治~天才画家の遺言~」を

見てから考え直した。

 

家に、2002年に講談社で刊行した

彼の作品160点以上載っている

没後35年の初画集

藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色 」という本が、

あったが、とても分厚い本なので積読だった。

 

 

今回、展覧会に行くにあたり、これをざっと読んでみた。

読むにつれて、やっぱり本物を観たいという気持ちが高まった。

 

(展覧会での構成)

Ⅰ:風景画ー家族と風景
Ⅱ:はじまりのパリー第一次世界大戦をはさんで
Ⅲ:1920年代の自画像と肖像ー「時代」をまとうひとの姿
Ⅳ:「乳白色の裸婦」の時代
Ⅴ:1930年代・旅する画家ー北米・中南米・アジア
Ⅵ-1:「歴史」に直面するー二度の「大戦」との遭遇
Ⅵ-2:「歴史」に直面するー作戦記録画へ
Ⅶ:戦後20年ー東京・ニューヨーク・パリ
Ⅷ:カトリックへの道行き

 

藤田嗣治(1886-1968)は、東京美術学校卒業後、パリに渡り、

日本で想像する以上の絵画の自由さと

ピカソ、モディリアーニ、ルソー等の新しい絵画に出会った。

 

東京美術学校時代の指導教授 黒田清輝指定の絵具箱

を捨てた。

 

そして、日本で学んだ西洋のモノマネでない、

オリジナルなものを独学で目指すようになった。

 

初期の作品   タピスリーの裸婦 

1923年 油彩、カンヴァス 京都国立近代美術館蔵

 

日本の墨を使い、浮世絵美人画からヒントを得た

乳白色の生まれた。

 

カンバスそのもののを色を生かし、

バックに裸婦を浮きだたせるようなラシャ模様を入れた。

 

自画像  1929年 東京国立近代美術館蔵

 

おかっぱ頭に丸メガネ、ちょびひげ、金のピアスといった、

藤田独特の個性的な風貌で描かれた自画像。

 

乳白色地に墨色の細い線の独特の制作方法を

強調するかのように、面相筆と硯の他、

背景の壁には女性像が描かれている。

 

藤田嗣治の独特の画風は

パリの狂乱の時代(エコール・ド・パリ)にあって、

一躍寵児となった。

 

日本人画家のジェラシーのような批評にあっても、

立腹もせず、淡々と創作を続けていく

人間としても芸術家としても大きな人だった。

 

日本に生まれて祖国に愛されず、

孤独に沈むことが多かったが、

絵画することは忘れなかった。

特設WEBサイト    http://foujita2018.jp
 

戦後、再度フランスにわたり、フランス国籍を取得。

 

1959年、72歳の時に洗礼を受けてカトリックに改宗してからは、

画家としての最終の仕事はフレスコ画を描くことだった。

 

その後、尊敬していたレオナルド・ダ・ヴィンチの名をとって

レオナール・フジタと名乗るようになった。

 

1965年、78歳の時、礼拝堂の建立する計画が持ち上がり、

御堂の設計や内外の装飾や庭園の設計に至るまで

綿密な作業が始まった。

 

壁画(フレスコ画)を制作するには、相当の技術と体力がいるが、それに挑んだ。

 

藤田嗣治 《礼拝》 1962-63年 油彩・カンヴァス

 パリ市立近代美術館(フランス)蔵 

 

自分自身の姿をマリア様の前に左側に入れている。

拝む様子がぎこちない(笑)。

右側の女性は君代夫人。

 

明るく発色のよく緻密な技法である。

 

テレビで遺言のテープを聴いた。

落語の語り口取り入れたような、

「死神」との対話のテープ。

本音が聞けた。

日本人としての魂は忘れていなかった。

 

藤田の絵は永久に世界に残る。

彼の故郷は絵こそが故郷だった。

 

必ず絵には、生きている魂が必ずあると思っています。

ーbyレオナール フジタ

 

会期  2018  10/8 まで

 

ミュージアムショップで買ったストラップ

 

URL         https://www.tobikan.jp/exhibition/2018_foujita.html  

 

この展覧会は、パリで活躍し、

20世紀を代表する画家となった藤田嗣治。

 

その生涯を絵画とともに辿り、20世紀の激動時代に生きた彼の全体像を理解できる

感動した素晴らしい展覧会だった。