カノミの部屋 -4ページ目

カノミの部屋

①原発の勉強

②読んだ本のこと

③思い出

④その他 
 バスクのこと、野上弥生子のことも

ブログ・505「『猫を棄てる』 4」2019・5・16

 

 その上、春樹の学校の成績は抜群ではなかった。毎日休まず通っているのに、小学校、中学校、高校での成績は、クラスで10番くらい。優等生というわけではなかった。このことは、特に父にとって不満だった。父は、自分が果たせなかった「学者」の道を継がせたかったのだ。「自分の若い時代と比べて、こんな平和な時代に生まれて、何にも邪魔されず、好きなだけ勉強できるというのに、どうしてもっと熱心に勉学に励まないのか」と思っていた。

 春樹少年にとって、学校には毎日行くものの、授業は退屈だし、細かい、意味のない校則があったり、暴力的な教師がいたり、自分を伸ばす要素が少なすぎた。父はとても頭のいい人と自他共に認められていたが、春樹の本の読者である私は、村上春樹という人は、とても頭のいい人だと思う。

 大学受験で私立大学に受かった時、「せめて国立大学に入ってくれ」と言われ、1年浪人して、毎日図書館に通い、フランス19世紀の分厚い小説を読んでいたという。国立大学の入試には、文科でも数学がある。国立大学に入る気は、ちっともなかったのだ。父の期待に背き続けている自分に後ろめたさを感じながら、子は自分のやりたいことをやりたかった。父が子に持つ期待の強さ、子が自分の成長を自分で決める欲求の強さ、お互い、妥協はしない。

 実際に春樹が早稲田大学第一文学部演劇専修科に入学したのは1968年である。学費は父が出しただろうし、右翼の経営する目白の学生寮に住む手配もしてあった。1968年は学園紛争の年である。先頭に立って活動したのではないが、基本的には学生の抗議に賛成だった。集会に出たり、デモに参加したりした。夜毎、目白から大学周辺の飲み屋で気勢をあげたりした。学生の、時代への抗議は正しい。けれども、やがてセクトに分裂し、体制にではなく、セクト同士の対立で死者まで出す。これはおかしい。どれだけ正しいメセージがあっても、その言葉を支える魂の力、モラルの力がなければならない。その時の失望は、一生彼を「個人」の中に引き戻した。

 大学は最初の1年は学生運動で、次の年は大学側のロックアウトで、ほとんど授業はなかった。引き続き在学はしていたけれど、新宿歌舞伎町で、終夜営業のアルバイトをしていて、今もその面影があるが、ちょっといかがわしい、雑多な、荒っぽい歌舞伎町という場所で、人生にかかわる知恵を身につけたと、「職業としての小説家」に書いている。