明治学院大学で「村上春樹さん」を見かける | カノミの部屋

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 バスクのこと、野上弥生子のことも

ブログ・492「明治学院大学で『村上春樹さん』を見かける」2019・3・

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 1986年、私は明治学院大学でギリシャ語のレッスンが無料で行われるという記事を見て、早速参加することにした。5月6日からレッスンが始まった。

 当時の日記を取り出して、確かめて見た。その頃私は57歳、53歳の時仕事を辞めて、「勉強するぞ」と張り切っていた時だ。早稲田大学の田村すず子先生から「バスク語」を習い、法政大学の川成洋先生のゼミにも加えていただき、「スペイン語」も続けていた。イエズス会のマシア神父さんの「聖書研究会」にも隔週通った。大学院には入っていない。もし悪い教授の下についたら困る。これから大学の先生になりたいわけではない。とにかく基礎力をつけ、バスクに関する本を書こうと、それを遠い目標として考えていた。

 さて、ギリシャ語は、アルファベットからして全くむずかしく、とにかく晩学の私には、一生懸命やることしかできない。荒木先生は、もちろんいい先生だったが、その頃「離婚の危機」に直面していたらしい。ある時は大幅に遅れてきて、黒板いっぱいにギリシャ語の文章を書き、そのまま帰ってしまったり、ある時は、村上春樹さんから手紙が来たと、読んでくださった。その内容は、ギリシャ人にギリシャ語で話しかけると、おおこれはギリシャ語のできる人だと思われて、早口でまくし立てられるので困る、と言うような内容だった。その日は、それだけで終わった。長いお手紙で、長編小説を落ち着いて書くために旅立つ前に、村上さんは荒木先生にギリシャ語を習ったのだろう。

 翌年、1987年、1学期が終わった日、みんなで打ち上げに五反田の「桝要」に行った。村上春樹さんも一緒だった。テーブルについた時、私は彼の隣の隣に座った。彼の本は読んでいなかったが、とにかく有名な作家である。座った位置から姿は見えず、隣に座った女性と小声で話しをされていた声も聞こえず残念だった。彼は、途中で、5千円置いて帰った。会計は、一人当たり2千円くらいだったから、残ったお金で、最後までいた数人で屋台のおでんを食べた。ギリシャ、ローマの滞在中、出版の用事のため帰国されていた時のことだっただろう。この後、「ノルウエイの森」が出版され、爆発的な売れ行きで、講談社ビルの屋上から、赤とグリーンの長い帯の広告を覚えている。紀伊国屋書店で、3つの売り棚が空になっていたのは、次作「ダンス・ダンス・ダンス」発売の準備だった。私が彼の本を読むようになったのは、そのずっと後だった。