恵理とアーサーは、アレクが呼んだヘリコプターで、病院に搬送された。
「大丈夫よ。大げさだわ」
と、恵理は、ベッドの上で言っていたけれど、熱が高いらしく、頭痛を訴えていた。
「肺炎を起こしかけてるんだ。亜莉亜、医者と話をしてくるから、恵理がベッドから起き上がらないように見張って手くれるかい?」
アレクに言われて、私はうなづいた。
アレクは、恵理の顔をもう一度覗きこみ、頬にキスをして、部屋を出て行った。
私は、恵理をシーツ越しに、思いっきり抱きしめた。
そして、恵理の髪の毛から、恵理が普段使っているのとは違う香水の香りに、軽い衝撃感を味わってしまった。
恵理が、アーサーと裸で抱き合っている姿が、頭の中でリフレインされる。
仕方のない事だった・・と、自分に言い聞かせる。
でも、この香りは、厭。もう二度と、恵理の体から、この香りをかぎたく無い・・・・

「亜莉亜・・」
恵理の体は、熱く、と息も熱を帯びていた。
「・・・・・・・・・・・怪我はしてないのね・・・どこも痛くない?」
ヘリコプターの中で、何度も尋ねた言葉を、また口にしてしまう。
「大丈夫よ。」
恵理が、ほほ笑む。
恵理にすがりつくようにして、体を寄せて、ハッとした。
アーサーの香り・・・・・・・・・
それに気付いた時、今まで、感じた事の無い感情が、心の奥底からまるで海底火山が噴火するごとく、湧きあがってきた。
恵理を守るのは、私。
そして、恵理を守るために私が出来る事は、バイオリンしかない。
家族も居ない、友達も居ない。。。バイオリン以外、欲しいものなど無かった。
私が必要なのは、恵理だけ。

恵理を、守るの。
二人で生きるの。
私は、恵理の熱で紅潮した頬にキスをした。
恵理が頬笑みかける。
そして、また眠りへと落ちて行った。

計器類の類が、ブザーを鳴らさないから、ただ、眠りに入っただけ・・・
ほっとしながらも、恵理から離れられない私。
恵理の、寝ている顔を、こんなに長い間見た事は無かったかもしれない。
あの会社でも、恵理はいつも残業しながら、頑張っていた。
私の名誉をかけた、馬術大会でも・・・

いつでも、全力を尽くして、やるべき事をしてきた恵理。
愛してる・・・という言葉では言いつくせない程、恵理に対しては、敬意さえ覚えてしまう。

そんな恵理に比べて、私に出来る事は、バイオリンだけ。
でも、それで、恵理といられるなら・・・・・・・・・・・
アランと二人で、音楽室でプチ演奏会をしていると、アレクがノックの音とともに入ってきた。
「恵理と、アーサーの乗っていた馬だけが、帰ってきた。何かあったかもしれない」
「え?」

3人で外に出ると、2頭の馬が、取りあえず外の棒に繋がれていた。
私は、一頭の馬の臀部近くに、何か刺したような傷を見つけた。
何?どうしてこの馬だけ・・・

「探しに行こう。」
アレクがそう言い、私もあわてて、アレクの助手席に座った。
二人が無事に帰ってくる事を考えて、レオンは留守番役になった。
「そんなに遠くに行ってないと思うよ。片方の馬が、水に濡れてるから・・・多分、湖の傍だ」
アレクは、このあたりの地理には詳しいはずだし、馬が走りやすいコースも熟知しているはず・・・・・・・・でも・・

「転落してなければ良いけど・・」
アレクの言葉が、私の不安を尚更にあおる。
もしも・・・・・・・・・もしも、恵理に何かあったら?
胸が締め付けられるような、気がした。
こんな気持ちは、初めて。
大切な人が傷つく、ましてや失うかもしれない。
そう思うだけで、私はパニック状態に陥っていた。
手が震え、不安に心が押しつぶされそうになり、呼吸が上手くできない。
「亜莉亜?」
アレクが、私の手を掴む。
「・・・・・落ち着いて。恵理は乗馬は得意だ。何か事故があったとしても、恵理は怪我もしてないよ。大丈夫」
「・・・・・・・・」

私は、「不安」という感情を、上手くコントロールできない。
どういうものか、よくわからないのだ。
バイオリン演奏の時でも、周囲の人が、落ち着きなく歩き回ったり、縁起を担いだりするのを平然と見ていた。
だけど、恵理に出会ってから、しばしば、こういう感情に囚われるようになった。
今日も・・・・・・・・
落ち着いて、助手席に座っている事なんて出来ない。
ああ、どうして、私の背中には、羽が無いのだろう。
そんな焦りに、息が止まりそうだった。

と、アレクが私の手を握っていた手に、力を入れた。。
「・・・落ち着いて、亜莉亜。恵理は強い女性だ。君を残して、何処かへ行くなんて事はないよ。」
「・・・」
アレクの言葉に、私は小さくうなづいた。
アレクは、私の気持ちが読めるみたい・・・・・・
恵理を独占しようとしている気がして、あまり好きになれない人だと思っていたけれど、アレクは悪い人じゃないみたい。
恵理を心配してるし、私の気持ちまで落ち着かせようとしてくれている・・・
「紳士」というのかしら、こういう人の事を。

「多分、あそこだ」
アレクが、湖のほとりにある小屋を指差した。
「煙が出てるという事は、暖炉を使ってる。人が居るということだ」

恵理、無事でいて・・・!

アレクの車が止まるのも待ち遠しくて、小屋の中に飛び込んだ私の目に入ったのは、
毛布とシーツにくるまった、レオンと恵理だった。
「やっと、お迎えだ」
アーサーは、いつもの口調だけれど、表情にほっとした感情が浮かんでいるのが見えた。
アレクは、
「恵理は?」
とたずねた。
「寒くて死にそうだったから、ウオッカを飲んだら、飲みすぎて寝ちゃってるだけみたいだ」
私は、恵理の顔を撫でる。
うっすらと、恵理が目を開けた。
「恵理」
「・・・・・・・・・亜莉亜・・・・・」
ぼんやりとした顔で、私を見て、それから再び、目を閉じた。
「恵理!」
私は、恵理を抱きしめようとして、アーサーと恵理が毛布とシーツの下で、裸体で抱き合っている事に気づいて、はっとした。

「急に馬が暴れて、僕が湖に落ちたんだ。それを、恵理が助けてくれて、二人して・・・
びしょ濡れ。それまでも、霧で大分体が、冷えてたから・・・」
「頭が痛いわ・・・」
恵理は、そう言うのがやっとの様子で、顔が赤く上気している。

「話は後でいい、取りあえず、車に乗るんだ。」
アレクは、そう言いながら、シーツごと恵理をくるんで、抱き上げた。
その姿に、私は胸の奥に、痛みを感じた。
抱き上げる役目を取られたから?
でも、私は、恵理をあんな風に抱き上げたり出来ない・・私の手は・・・そう、私の手は、恵理を喜ばせる事と、バイオリンを奏でる事しか出来ない。
そう思うと、酷く自分がみじめに思えた。

私は、恵理を支えられない?
愛してるのに。
「愛し続ける」という事に、初めて気付いた。
沢山の人と肌を重ねたけれど、それは、恵理とするのとは別の事だと、はっきりわかった。
私も、恵理を守れるようになりたい・・・・・・・・
小屋の入口にある、鉢植えの中の一つを持ち上げ、そこから鍵を取りだしたアーサーは、鍵を開けたが、その手は、ガタガタと震えていた。
私も、水にぬれた体が、冷気で冷たくなっていくのを感じていた。

アーサーは、あちこち家具をあけ、タオルとシーツを見つけ出して私に手渡した。
「着替えは、流石に無いから、これを・・」
「・・・有難う・・」
私は、アーサーに背を向けて、シーツで体を隠しながら、ぬれた服を脱ぎ捨て、タオルで拭いた。
薄いシーツ越しに、私がしている事がアーサーからはまるわかりだとわかっていたけれど、今はそんな事を気にしている場合じゃない。
タオルで水分は拭き取ったものの、冷え切った体は、ガタガタと震えるほどだった。
シーツを巻きつけた格好で振り返ると、アーサーは、上半身だけ脱いだ姿で、暖炉に火を入れようとしている所だった。

自分の着替えよりも、火を起こそうとしているのだと気づいて、私はその背中にタオルをあて、拭き始めた。
「・・・光栄だよ・・・」
いつものように、ちょっと意地悪な口調をしてみせようとしているけれど、その声は明らかに震えていた。

「恵理に、体を拭いてもらうなんて事・・アレクが聞いたら・・・」
「後は、私が・・・早く、貴方も全部ぬれた服を脱いで」
私は、アーサーをどかせると、枯れ草についた炎をあおり、小枝を順番に入れていった。
ぱちぱちと音がしはじめ、炎が大きくなるのをみて、一瞬、ほっとする。
徐々に、太いまきをくべていき、やがて、炎は安定してきたが、体の震えは相変わらず止まらない。

「恵理、髪の毛もびしょぬれだ」
シーツを体に巻きつけて、片手で押えているので、髪の毛をそのままにしていたのにアーサーが気づいて、手を伸ばしてきた。
火の傍に二人で座り、アーサーが、私の髪の毛を後ろからタオルで拭いてくれる。
アーサーに怪我がなかった事と、取りあえず、暖をとることが出来た事で、気持ちは落ち着いてきて良いはずなのに、何か、別のものが私の中でざわめいていた。
そう・・・まるで、映画やドラマや安っぽい恋愛小説みたいなシチュエーション。

アーサーは・・・・・・そう、アーサーは、幼馴染。
子供の頃から、知っている。
今は大人だけれど、綺麗なガールフレンドが沢山いて、浮名を流している事は社交界でも有名だし、貴族でも無い島国の日本女性に手を出すほど、彼は雑食ではない。
それに・・・一応、『紳士』教育は受けているはず。

「・・・綺麗な、黒髪だね・・」
炎が大きくなり、温まった空気が少し肌に感じるようになったころ、髪の毛を拭いてくれていたアーサーが言った。
「有難う・・・・・・」
それ以上、何故か言葉が出てこない。
私は、アーサーに恋などしていない。
だけど、この緊張感は・・幾度か、経験した事のあるものだと自分でもわかっていた。
ぴりぴりするような、脈打つような・・・自分の中の何かが波打つような、『気持ち』とは別のもの。
それを、何と呼ぶか、私は知っている。
学生時代、シスターたちにいつもそれに、心を奪われないように・・と、念を押されていたもの・・・・・・・

「日本女性の髪の毛と肌は、本当に綺麗だ・・・」
背中越しに聞こえるアーサーの声に、心臓が、震えるようだった。
「そうみたいね・・・有難う、もう良いわ」
そういいながら、振り返ると、アーサーの唇は紫色になり、顔は青ざめて震えていた。

「アーサー・・・貴方、私の髪の毛の事・・」
私の声は、そこで遮られた。
私は、アーサーに抱きしめられていた。
「御免・・・恵理・・寒いんだ・・・・僕・・死んでしまうかもしれない・・ねえ・・」
自分の着替えより、火を起こす事を優先させたり、自分の体よりも私の髪の毛を心配していた『紳士』のアーサーは、それ以上、『紳士』を演じる事が出来なくなっていたのだ。
私は、何か胸を突かれる思いで、アーサーを抱きしめた。
「大丈夫よ・・・」
私は、何か強いお酒が無いかと、立ち上がった。
「恵理・・・離れないで・・・」
アーサーが、ぬれた子犬のような、すがるような目で見る。
「大丈夫よ・・・」

古い小屋の中の、埃っぽい香りにも少しなれた。
外の発電機を回せば、照明もつくだろうけれど、今、外のに出る事は出来ない。
入口に備え付けられていた懐中電灯が、かろうじてついた事にほっとしながら、部屋の中を見渡す。
古いベッドに、テーブルセット。
クローゼットには、ハンガーだけがぶら下がっていたけれど、下の引き出しから、タオルと、毛布のストックを見つけ出して、数枚、引っ張り出した。
部屋の広さの半分が、キッチンだ。
狩りの為に使う部屋だと聞いていたけれど・・・頑丈なレンガ造りで、年月を感じさせる。

サイドボードから、ウオッカを見つけ出した。
毛布で、二人でくるまりながら、ウオッカのふたをあけて、アーサーに飲ませようとするが、彼は、ガチガチと歯をならすほど震えていて、上手く飲む事が出来ない。
私は、何も考えず・・そう、本当に、何も考えずにその度数の高い液体を口に含み、アーサーに口移しで飲ませていた。

アーサーののどで、ごくりと音がするとともに、アーサーが、激しくむせた。
「大丈夫?」
背中をなでると、涙目でうなづく。
暖炉は、かなり炎が大きくなってきていたけれど、まだ部屋の中は寒く、お互いの体は冷え切っていた。

私は、思い切って、それを実行することにした。
ウオッカを、かなりの量をのみ、アーサーにも飲ませた後、自分の体にまきつけていたシーツと、アーサーの体を巻きつけていたシーツを外し、二人の裸体にまきつけ、その上から毛布でくるんだ。
ひんやりと冷たい、まるで石像のような、男性の体・・・・・・・・
亜莉亜とは全然違う。
筋肉のつきかたや、体毛や香り・・・
でも、自分の体にしがみつき、震えているアーサーに、不思議なほどの愛しさを感じていた。
「母性愛って、こういう気持ちなのかしら・・・」
ふと、そんな事を考えてみたりもした。
そうしないと・・・・・・・・・
そう、そんなどうでもいい事を考えていないと・・・・・・・
今の、この「現状」を受け入れる事は出来なかったから。
アーサーが、何かする事は無いと宣言しても
私が、亜莉亜を心から愛していると宣言しても
心の奥底の陰に、見たくない、知りたくない何かの「影」を、感じずにいられなかった。
木の燃える匂い、煙り、小枝のはぜる音。
静かな沈黙・・・・・・・・・・

ウオッカのせいだろうか、ふいに酔いがまわってきた。
40度のお酒を、一気に飲んで、平静でいられるはずはないと解っていたけれど・・・
「・・・・・・恵理・・・・」
「・・アーサー・・貴方の馬。どうして突然、駈け出したのかしら・・・」
「わからない」
まだ、カタカタと震えながらアーサーが答えた。
「・・・なんだか、気になるの。あれだけ調教されてる馬が、突然、貴方を振り落とそうとするなんて・・・」
「・・・わからない」
アーサーは、その言葉を繰り返す。
「・・・頭が、ぐらぐらするわ・・」
意識が、徐々に薄れていく・・・
アーサーが何かを言ったような気がしたけれど、私はそのまま、眠りの中へと落ちて行った。