恵理は、お仕事の勉強をするためにフランスへ旅立った。
淋しくて、辛くて、空港でずいぶん長い間、泣きじゃくってしまったけれど、恵理は私をずっと抱きしめて、「愛してるわ」と繰り返し、言ってくれた。
帰りの車は、アレクと一緒だったけれど、ほとんど何の会話をしたのか覚えていない。
私は、ずっと泣いていたから・・・・・

私は、リントン邸で暮らし、音楽学院へと通う事になった。
「キッシンジャー教授に、戻って頂いたよ」
レオンとアレクの3人で、テラスで午後のお茶を飲んでいるときに、アレクが言った。

爽やかな風と、新緑が鮮やかな庭を見下ろすテラス。
肩を冷やさないように、恵理が使っていたブランケットを肩にかけて、ぼんやりと外の景色を見ていた私は、視線をアレクにうつした。

言葉を発したのは、レオンの方が先だった。
「キッシンジャー?アレク、それは・・」
レオンが、首をすくめた。
「まずくないかい?」
「??」
私は、小首をかしげてレオンとアレクを、見比べた。

「大丈夫だよ。ほら、亜莉亜は、名前を聞いても、それが誰かを忘れてる。」
小さく笑いながら、アレクが言った。
「え?」

アレクは、笑いを押し殺した顔のままで
「あちらは、死ぬまで忘れられないだろうけれど・・・でも、それでも音楽学院の教授に復帰できたのだから、もう同じ間違いは繰り返さないさ。離婚して、不遇の生活を送っていたから、かなり懲りているはずだ。」

離婚???
あ。

「やっと思い出したようだね。キッシンジャー教授も、お気の毒に。自分の地位も家庭も犠牲にしてまで、溺れた君が、その程度にしか思ってないと知ったら、さぞお嘆きになるだろうね。」
アレクは、穏やかな顔で言った。
嫌みでは、無いらしい。

「だから、亜莉亜なのさ。あいつも、亜莉亜がそういう性格だってわかってるから、戻りやすかったんだろうし。仕事や生活の為とは言え、スキャンダルは一生付いて回る。音楽学院では、教授職は得ても、冷遇されるのは目に見えてるけどね。それでも、教授の地位と職への執着心の方が強いと見える。」

レオンの言葉の方が、なんだか嫌みっぽく聞こえる。
アレクは、メイドにお茶のお代わりの合図を、軽く送ると、笑顔で言った。

「冷遇させないよ。出来うる限りの待遇でお迎えするように言ってある。ただ、亜莉亜の、担当教授としての役目を果たせれば・・の話だ。120%の実力を発揮してもらえないなら、辞めてもらうけどね。」

恵理も、毎日、「やらなきゃいけない事」が、沢山あって大変らしい。
アレクは、恵理のスケジュール表を私にもくれたから、あまりにも細かいスケジュールで、見ているだけで目が回りそうだったので、中身はともかく、大変なのだという事はわかった。

そして私は、ただ毎日、バイオリンの練習を頑張れば良い・・と思っていたのに、いきなり、翌朝から、早朝ランニング。
「体力をつける」
というメニューが、私のスケジュールに、プラスされていたのだ。

すっかりなまっていた体に、早起きは辛いけれど、レオンが誘いに来るので、いやいやでも一緒に走る事になる。
二人で走っていると、同じように、広い敷地内を走っている人を見かけた。
数人は、レオンと親しげに挨拶をしていたけれど、私の事はちらりと見るだけ。
食事も、リントン夫妻が援助しているという『芸術家の卵』達と、一緒にするけれど、みんな私には冷ややかだ。
別に、気にしていない。
今まで、ずっとそうだったもの。
「みんな、君の才能とチャンスを、妬んでるだ」
と、レオンが言っていたけれど・・・・・・・・・・・・
だから、私はどこでも嫌われる。それは、私のせいなの?

恵理と同じ会社に勤めていた時、あの時は、最初はみんな冷たかったけれど、暫くしたら笑顔で話してくれるようになった。
一緒に、得意先に行ったり・・・会議の後のおしゃべりや、賑やかな飲み会や。
色々と、親切にしてもらったし、優しくしてもらえた。
あれは、どうしてかしら?
考えても仕方ないけれど。
もう、あの場所へは戻れないのだから・・・。

音楽学校の空気は、ずいぶん久しぶりだけど、細胞の一つ一つが、わくわくしていた。
古い建物が、おおい茂る木々の緑の下でまどろむ、大きな古い亀みたいに見える。
あちらこちらから、色々な楽器の音が聞こえると、それが「生き物の声」に聞こえるし、その「生き物達」を体内にやどした建物も、また生き物に思えてしまう。
そして、歩いている学生が、みんな私と同じで、音楽を愛していると思うと、嬉しくなるのだ。
私自身は、誰からも、好かれないとわかっていても・・・・・・・・

キッシンジャー教授に会うと、おぼろげながら記憶がよみがえった。
ずいぶん、お歳を召された気がしたけれど、口にしなかった。
白髪も、皺も増えている。
「・・亜莉亜、久しぶりだね。おめでとう。君の才能は神様がくれたものだ。神様は、やはり君を愛していらっしゃるのだね」
「また、ご指導、宜しくお願いします」
私は、そう挨拶をした。
神様。
そう、キッシンジャー教授は、クリスチャンで、信仰心が厚い。
でも、会話の端々に、「神様は・・」と、まるで何もかもが、人間の意志とは無関係に決められているかのような言い方には、今でも、馴染めない。

「さあ、聞かせてくれるかな?そう・・・君の好きな曲で良いよ。」
教授に言われて、私はヴィヴァルディの「四季」から「春」を弾いた。

演奏を終えると、教授が言った。
「オーバーホール」
懐かしいこの表現・・・

機械式時計の愛好者でもある教授が、時計のメンテナンスの「オーバーホール」にひっかけた『注意』
部品をバラバラにして、磨き上げて、組み立てる。
要するに、基礎から叩きなおして、もう一度、「私」を組み立てるよう言われているのだ。
「わかりました」

ブランクは、確実に音に出ている事は予期していた。
今日から、ひたすらバイオリンを弾き続ける。
すでに、私の頭の中は、バイオリンで一杯だ。