私は、重い体を引きずるようにしてバスを使い、力尽きたようにクイーンサイズのベッドのシーツに潜り込んだ。
メイクを落とし、体を洗うのがやっとだった。
これまでも、幾度かそういう事があり、翌朝、ひどく後悔した。
ヨーロッパは、日本と違って酷く乾燥している。
部屋に、加湿器を5台も置いてもらっているが、それでも、クリームを使わないと肌が乾燥で酷い有様になる。

ふと、ひんやりとしたものが、ほほを優しく潤した。
春蘭が、コットンで化粧水をはたいてくれている。
「ああ・・・・・・・有難う・・・・・」
これで、安心だと思った瞬間、私は、うつらうつらと眠りへと落ちて行った。

亜莉亜・・・・・・・・?
まどろみの中、私は、亜莉亜を見たような気がした。
亜莉亜の、ジルの香り。
亜莉亜・・・貴女に会いたかったのよ。
声も聞けないし、貴女を抱きしめたいのに、毎日大変で・・・ねえ、亜莉亜・・・

亜莉亜を抱きしめた・・・・と、思った。
ジルの香りもした。
だけど、私の体の記憶が「違う」と、言い放ち、私ははっと目をあけた。
そこには、裸体の春蘭がいた。

「・・・・・・・・」
私は、はっきりと目を覚ました。
体を起こす。

何?
何が起きたの?

私が抱きしめたのは、亜莉亜ではなく、春蘭だと気づいて、そして何故そんな事になったのかについて、頭を巡らせていると、春蘭がそっと私の手を自分の手のふくらみにあてた。
「どうぞ・・・・・・・・亜莉亜様の、代わりに私を・・・・・。」

私は、その手を無意識に払いのけ、背後へと後ずさりをしていた。
「・・・・・・・春蘭・・・・・・・私が、貴女をここへ来るようにと・・言ったの?」
私は、激しい動揺を必死に抑えながら言った。
なんてことを!
いいえ、ここは、ちゃんと『事実』を確認するのよ、恵理。
動揺している自分を、そう言い聞かせながら、春蘭に問い返す。

「いえ・・でも、夢の中で亜莉亜様をお呼びになる、恵理様がお気の毒で・・私が、お傍に近付きましたら、恵理様が・・・」
「・・・・・その姿・・貴方の衣類を脱がしたのは、私?」
「・・・自分で脱ぎました。恵理様が、私をお求めになられたと思ったので・・・」
「それ以上は?」
お酒に、酔ってはいたけれど、記憶を失うほどは酔っていない自信はあった。
春蘭は、私の厳しい表情にも、いつもの無表情さを崩すことなく、うなづいた。
もし、それ以上した・・と彼女が言うなら、詰問するつもりだった。
想像以上に、私が冷静だった事で、彼女もあきらめたのかもしれない。
伏目がちに、「何もされていません」と答えた。

ふぅ・・・
どうやら、「ただ、抱きしめた」だけらしい。
なんてこと・・・・・・

「春蘭・・もう一度、確認させて。私は、貴女を抱きしめたのね?」
「はい」
春蘭の意図がわからない。
嫌がっている風でも無いし、彼女は奴隷では無いのだから、私が何かしようとしても、厭なら拒否しているはず・・・・・・・・
拒否?
春蘭が、もし、自分が「召使い」だとして、それを拒否出来ないと思っていたら?
でも、「拒否できる」というのは、私の立場での判断だ。

「ごめんなさい。悪かったわ。亜莉亜がいると思ったの。謝るわ。」
「いえ・・・・・・私は、恵理様が望まれるのでしたら・・・・・・・・」
はにかみながら、春蘭が、もう一度、私の手を取ろうとした。
私は、その手を払った。
頭は、不思議なほど冴えていた。
すでに、春蘭の行為は、『召使い』を超えている。
春蘭の意思が無いなら、間違いなく私の『セクシャルハラスメント』。
春蘭の意思があるとしたら、それは?
私への愛情など無い事は、彼女の目を見ればわかる。

「・・・春蘭、私の恋人は、亜莉亜だけ。それを知っていて、私に恋愛感情も無く、こんな事を貴女にさせようとしているのは、誰なのかしら?」
春蘭は、顔を上げる事無く答えた。
「誰にも・・私は、ただ、恵理様に心からお仕えするようにと言われて、ここに来ているのです。恵理様の、お気持ちを、ただお慰めしたくて・・」
私は、春蘭のあごに手をあて、そっと上に持ち上げ、視線を絡ませた。
春蘭は、あわてたように目をそらした。
でも、その春蘭の目の奥底が、冷え冷えとした光をたたえているのを私は見過ごさなかった。
ため息をつきながら、私は春蘭を見詰めた。
「ねえ・・春蘭。どうして、貴女が、亜莉亜と同じ香水を使っているのか、尋ねていいかしら?リントン家のメイドは、香水の使用は禁止のはずよね?」

翌朝、私はアレクに電話をかけた。
「春蘭を、そちらへ戻して頂戴。」
「何?春蘭が、何か問題を起こしたのかい?」
アレクは、いつもと変わらぬ、穏やかな口調で答えた。
「亜莉亜の代わりになろうとしたのよ。亜莉亜と同じ香水までつけて、私のベッドに入ってきたの。あやうく、亜莉亜と間違える所だったわ。」
私は、そこで、小さなため息をついた。
「それは・・・僕の召使いが、失礼な事をして申し訳ない。彼女は、すぐにこちらへ呼びもどすよ。代わりの女性を・・・」
「いいわ。自分の事は自分でするから」
「落ち着いて、恵理。今は、ショックで女性に対して、危機感を抱いてるかもしれないが・・・・・・・・・君には貴婦人で居てもらわないと・・言っている意味はわかるね?」
「ええ・・」
そうだ。
貴婦人は、傍に必ず女性の使用人がいるべき・・なのだ。

「解ったわ。あなたの良いようにして。」

「すぐに、手配するよ。それよりも、体調はどう?」

「至って元気よ。亜莉亜に会いたいわ。声だけでも聞きたい・・電話が、いつもすれ違いなの。連絡するように、伝えてくれないかしら?」

「解ったよ。でも、今、亜莉亜もほとんど籠りっきりでね。いくら才能があっても、ブランクを埋めるのは、簡単な事じゃない。僕も、何が何でも仕上げてもらうつもりだし、彼女も、そのつもりだ。君を恋しがって、練習に身が入らないかと心配したけど、想像以上のプロ意識に、正直、驚いているよ。」

「亜莉亜の才能は、バイオリンの演奏技術だけじゃないわ。それに値する、精神を持ってる。それが、天才たるゆえんよ」

「まさしくだね。恐ろしいほどの集中力で、レオンが圧倒されてる。プラチナチケットは間違いないが、かなりの投資をしてるのでね。僕としては、100%の成功しか認めない。」

「100%?」
私は、くすっと笑った。

「ええ・・・亜莉亜なら、120%やり遂げるわ、きっと。」
そう、亜莉亜なら。
私は、そこまで集中して練習をしている亜莉亜に、「電話して」などと、軽くアレクに言った事を、後悔した。

「君の体調はどう?」

「私は大丈夫よ。私の方も、貴方からかなり投資を受けてるんですもの・・・成果は必ず出すつもりよ。」

「頼もしいね。流石は、エリザベス」

「懐かしいわ、そのあだ名・・」
ふふ・・

「さっきの・・亜莉亜への伝言、やっぱり伝えなくてもいいわ。彼女が、かけてきたくなれば、かけてくるでしょうから」

「君も忙しいから、すれ違うんだろう。そのうち・・いいものを送るよ。」

「いいもの?」

「そう、楽しみにしておいてくれ。代わりのメイドは、今日中にも送るよ。」

「ええ・・」

私は、思い切ってアレクに言った。
「アレク、確認させて。亜莉亜と同じ香水を、春蘭は使ったの。彼女は、レオンからもらったと言ったけれど、そうだと思う?」
「レオンに?何故?」
多分、「そう答えるだろう」と、思った通りのセリフが返ってきた。
「さあ・・私にはわからないわ。ただ、もし本当なら、伝えて。私には、よけいなリラクゼーションは必要ないし、亜莉亜以外の女性には興味がないってね。」
くくっと、アレクが小さく笑う声がした。
「解ったよ。伝えておく・・・」

受話器を置いて、私は、深くため息をついた。
私は、貴方に言ったのよ・・・アレク・・・・