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湖南省で日本語教師

湖南省の某所で日本語教師をやってます。専攻は中国語で、まだまだペーペーですが頑張ってます。

柳瀬尚紀氏は自身の著作である「翻訳はいかにすべきか」で、「翻訳に不可能はない」とおっしゃっています。



翻訳はいかにすべきか (岩波新書 新赤版 (652))/柳瀬 尚紀

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果たしてそうなのでしょうか?これまでに僕はこのブログ上で翻訳の限界について説明してきました。


翻訳の限界について、以前は実例を挙げながら解説しました。


日本語の洒落言葉をいかに訳すかについて → 豊島屋に行った経験をネタにした翻訳してみようvol.24


「俺」という一人称をどう訳すか → 東野圭吾「変身」の訳文を指摘しながら解説



 

そして、その「翻訳の限界」について、この「日本語 表と裏」において日中両言語の違いについて述べられていたので、そのことについてお話します。

日本語 表と裏 (新潮文庫)/森本 哲郎

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日中両言語の違いについて話す前に、僕らが普段使っている言語についてお話します。


まず、言葉とは伝達の手段であるとともに、認識・思考の道具であるということを言っておきます。


これは一体全体どういうことであるのか?簡単に例を挙げて説明します。


例えば、お腹が空いてファーストフードに入ったとします。そこで、店員に「ご注文は何にいたしましょうか?」と聞かれたときに、「ハンバーガー1つください」と言います。この「ハンバーガー1つください」というのが、伝達の手段としての言葉です。また、そのファーストフードでレジに並んでいたとき、頭の中で「何食べようかな―、フィレオフィッシュもいいな・・・あとポテトも食べたいかも・・・」と考えているのが、まさしく認識・思考の道具です。


言語があったからこそ、人々は現実を認識し、思考し、“演变”を重ね、もともと1つであったら人類は様々に分化し、地球全体に散っていきます。この分化した人々はみな一人ぼっちではなく、ある程度まとまったコミュニティを作っています。これが民族であったり国家であるのです。(なら言語はいつ生まれたんだ?って話にもなりますよね)


言語が民族を形成したのではないか?というのが、鈴木先生のお考えです。



このことについては、この本に詳しく書いてあるので興味がある方はどうぞー。著者は僕の先生の先生です^^


新版日本語学の常識/数学教育研究会

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言語が人によって伝わる以上、情感を帯びることになります。情感とは「物事が心に与える独特のおもむきや感じ」のことであり、つまりここでは「言葉が心に与える独特のおもむきや感じ」のことを指しています。


さっきも言った通り、言葉は常に“演变”しています。そこにはヒトの認識や思考が働いているのです。それによって、日本語には上にあげたような洒落言葉や、一人称の多様さが生まれたのです。そして、これらは人々の情感に訴える言語に他なりません。この情感を翻訳しても果たして日本語と同じよように表現できるのでしょうか?本当に、「翻訳に不可能はないのでしょうか」




話は戻り、この『日本語 表と裏』でも書かれていた日本語の特徴について取り上げることにします。


日本語は現実に起こる出来事を、言語によってより多彩に表現しようとします。その最たる例が、ぽたぽたと涙がこぼれるの「ぽたぽた」、雨がザーザー降るの「ザーザー」といったオノマトペです。


同著のなかで、日本語は情感的で、中国語は論理的であるということが述べられていました。


たとえば、「涙がはらはらと落ちる」が「泪流连续不断」であると中国人が言っていたそうです。


でも、この例は間違いです。日本語のオノマトペと完全に一緒!!とまではいかないまでも、それに似た表現が中国語には存在します。そのことについては、前にこの記事で書きましたので、良かったらチェックしてみてください。


でも確かに、日本語は情感的で、中国語は論理的であるという説には一理あると思います。それについては、次の機会にでも書きます・・・。


次の機会っていつ?っていうのを「もしかしたら無いかも」と悟るのが日本人、「え?具体的にいつなのよ?」と聞いてくるのが中国人。確かにこれも情感的と論理的の差かもしれませんね。


もちろん一概には言えません。全ては“看人”ですから(笑)