日韓関係の改善のために/慰安婦像制作者夫妻へのインタビューと徴用工問題の宇都宮弁護士の寄稿文 | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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 昨日夜のNHKニュースを何となく眺めていたら、日韓問題はすべて韓国側に非が有り、文政権は側近の不祥事問題もみ消しのために対日強硬策を取っているかのような一方的な解説で、テレビを消したが、こんなクズニュースに頷いている日本国民も多いのだろう。

 慰安婦問題という国際的に確立した歴史的事実を無視することは戦争犯罪に目をつむることになるし、徴用工問題での個人の賠償責任を日本政府も認めた事や、安部政権が意趣返しで外交問題と経済問題を混同して経済的制裁を加えたことに触れない日本のマスコミの犯罪的立場はきちんと批判されなければならないと思う。

 そんな中で、「しんぶん赤旗」に掲載された慰安婦像の制作者夫妻へのインタビュー記事が、清涼な風を吹かせてくれた。

 

「表現の不自由」考える 「少女像」日韓の懸け橋に

制作の彫刻家キム・ソギョンさん キム・ウンソンさん語る

 

「28年にわたり韓国ソウルの日本大使館前で「慰安婦」問題の解決を目指したたかってきた被害者の若かりし日をモチーフにつくられた「平和の碑」(少女像)。制作した韓国の彫刻家キム・ソギョンさんとキム・ウンソンさん夫妻に、「少女像」に込めた思いや、展示が中断された国際芸術祭・あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」について聞きました。(ソウル=栗原千鶴 写真も)

手を取り被害想像して

 少女像は1992年1月から現在も毎週行われている「慰安婦」問題解決のための水曜行動が、1000回を迎えたことを記念して2011年12月に建てられました。日本の一部の政治家や保守系のメディアは、少女像を「反日の象徴」などといいますが、それは違います。「慰安婦」被害の歴史を記憶し、人権のためにたたかい続けるハルモニ(おばあさん)をたたえ、運動を継承するためのものです。

 少女像には、ハルモニの苦しく長かった人生や未来への夢など、すべてを込めました。

韓国社会の問題も

 少女の後ろに伸びている影は、ハルモニの姿になっています。少女の時代に動員され、謝罪を受けることのないまま年を重ねたハルモニの悲しみを表現しました。肩に乗っている小鳥は、平和と自由を象徴し、いまもこの地でたたかい続けているハルモニと亡くなって天にのぼったハルモニをつなぐ絆です。

 

 被害に遭った当時、朝鮮の女性は長い髪を三つ編みにするのが一般的でしたが、あえて短く、毛先のそろっていないおかっぱ頭にしました。それは大切な家族や故郷から無残に引き離されたことを意味します。当初そっと重ねようと考えていた両手は、日本政府が建立を妨害していると聞き、ハルモニのたたかいを表す握り拳にしました。

 

 擦り切れているはだしの足は、彼女たちの歩んできた人生の険しさを表しました。その足は少し、かかとが浮いています。これは被害者たちを受け入れることをしなかった韓国社会の偏見と、無策だった韓国政府の無責任さを表しています。

 

 韓国は、大家族の家父長制でした。被害を受けたことが恥ずかしく、解放後も故郷に戻れなかった人がいます。帰ることができても、家族や親せきにさえ疎まれ、再び故郷を去らざるを得なかった人もいる。被害者が、罪人のようにひっそりと生きていかなければならなかったのです。

 

 金学順(キム・ハクスン)さんが実名を公表し、被害を告発したのは1991年8月でした。その時、私たちは、その事実に心を痛めつつも、被害者がいて加害者もはっきりしている、解決はそう遠くないだろうと考えていました。

 

 しかし2011年1月、水曜集会に遭遇しました。まだ解決していなかったのかという驚きと、そのことを知らなかったという申し訳なさが募りました。集会の主催団体を探し訪ねると、支援者から寄付を募り「平和の碑」建立プロジェクトが進行中で、芸術家としてできることをやろうと決意しました。

再展示求める声に希望

 芸術家たちの表現の自由が守られることは民主主義の基本です。「表現の不自由展」で、少女像が最後まで展示することができれば、日本に民主主義があるということが証明されると考えていましたが、そうはなりませんでした。

 

 短い時間でしたが、私が会場にいて感じたのは、日本の市民の成熟した姿勢です。

 

 説明を熱心に読みメモをとる人や、ハルモニたちの境遇を思って涙しながら鑑賞する人もいました。多くの人から「展示してくれてありがとう」「反日の象徴だと誤解していた」と声をかけられました。中断している「不自由展」の再開を求め行動する市民もいて、被害者の人権を無視している安倍政権とは違うと感じ、本当にうれしく思いました。

反日ではなく共感

 少女像の隣には誰も座っていない椅子を置きました。亡くなったハルモニたちが隣で見守っているよ、という意味があります。そして通りかかった人が、なぜここに椅子があるのかと考え、座って少女像の手を握り、ハルモニが夢見る平和を想像したとき、この作品は完成します。

 

 少女像を訪れた人は、暑い日には帽子をかぶせたり、寒い日にはマフラーをまいたりします。手紙を書いてくる人もいます。そこにあるのは「反日」ではなく、つらい人生を歩んできた被害者への「共感」です。

 

 安倍政権は憲法9条を変えて戦争ができる「普通の国家」になろうとしていますよね。いま、戦争は絶対にダメだという日韓の市民の連帯が大事だと思います。

 少女像が、その懸け橋になることを願います。一人ひとりの小さな行動、その小さな炎が、大きな歴史をつくるはずです。」

 

 

 

表現の自由とは、誰かが判断するものではない。全ての人々に認められた普遍の権利なのだ。

名古屋市長とか神奈川県知事とかのたかが一首長がその可否を判断する権利なんか初めからないのだ。何を狂っているのか自分の価値観に合わないものは認めないなどと公言する無知蒙昧な連中が多すぎて息が詰まりそうだ。

 

そしてもう一つは、徴用工問題について「ハンギョレ新聞」に掲載された元日本弁護士連合会会長の宇都宮健児弁護士の寄稿文。

この問題の本質について学べると思う。

 

歴史の事実を踏まえた冷静な対応が今ほど求められている時はないと思う。

 

[寄稿]徴用工問題の解決に向けて

「国家間協定で個人請求権が消滅しないのは国際法における常識」

 

「1.韓国大法院判決に対する日本政府の対応の誤り

 

 2018年10月30日、韓国大法院(最高裁)が新日鉄住金株式会社に対し元徴用工4人への損害賠償を命じた判決について、安倍晋三首相は同年10月30日の衆議院本会議において、元徴用工の請求権について「1965年の日韓請求権・経済協力協定によって完全かつ最終的に解決している」とした上で、「判決は国際法に照らして、あり得ない判断だ。日本政府として毅然と対応していく」と強調した。また、河野太郎外務大臣も「判決は暴挙であり、国際法に基づく国際秩序への挑戦だ」と韓国大法院の判決を批判した。テレビ・新聞など日本のほとんどのマスメディアは、このような政府の姿勢に追随し、韓国大法院判決と韓国批判の大合唱を行っている。

 

 しかしながら、国民主権の民主主義国家においては、立法、司法、行政の三権は分立しているのが原理・原則となっている。三権が一権に集中すると独裁政権となり、権力の濫用が行われ、国民・市民の自由と人権が侵害される危険性が大きくなるからである。有名なフランス人権宣言16条では「権利が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は憲法をもたない」と規定している。

 

 そして三権分立下での司法の中心的役割は、国民・市民の基本的人権を守るという立場から、立法・行政をチェックするところにある。元徴用工の人権を守るため韓国大法院が仮に韓国政府の立場と異なる判断をしたとしても、民主主義社会における司法のあり方として全然おかしいことではないのである。

 

 韓国大法院の判決を暴挙として批判を繰り返す日本政府や政府に追随する日本のメディアは、民主主義社会における三権分立とは何か、三権分立下における司法の役割とは何かを、全く理解していないものと言わざるを得ない。

 

 また、元徴用工などの個人の損害賠償請求権を国家間の協定によって消滅させることができないことは、今や国際人権法上の常識となっているものである。

 

 さらに、これまで日本政府や日本の最高裁判所においても、日韓請求権協定によっても実体的な個人の損害賠償請求権は消滅していないと解釈されてきたものである。」

 

全文は下記から。

 

http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/33949.html