イスラム批判の言論を天皇制批判に置き換えて「表現の自由」を語ろう | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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表現の自由は、その内容がどうであれ、これと切り離して保障されなければならない。当然といえば当然のこの理だが、これを貫徹することの難しさを痛感させられる。

「私は貴方の意見には反対だ、だが貴方がそれを主張する権利は命をかけて守る」という箴言は、ヴォルテールが述べたとされながら、実は誰も出典を特定できない。それでも人口に膾炙しているのは、その内容が名言中の名言だからだ。具体的な場においてこの原則を貫徹することはなかなかに困難である。実践困難だが正しいからこその名言である。


「シャルリー・エブド」に対するテロ事件の続報に考え込んでいる。街頭にくり出したヨーロッパやアメリカの民衆との連帯に違和感はない。しかし、オランドや安倍晋三、あるいは産経や読売とまで一緒に「言論の自由を守れ」の大合唱の輪の中にいることの居心地の悪さを感じざるを得ない。


我が国の戦後史において、今回のシャルリー襲撃事件に最も近似した事件は何であったろうか。「悪魔の詩」の訳者であった筑波大五十嵐一助教授の殺人事件(1991年7月)ではない。我が国におけるイスラムへの揶揄の言論がもつ社会的なインパクトは、フランス社会とは比較にならないからだ。


おそらくは、中央公論嶋中事件(1961年2月)がシャルリー攻撃に近似するものではないか。雑誌『中央公論』に発表された深沢七郎の小説「風流夢譚」の中に、皇太子・皇太子妃が斬首される記述があった。斬首された首が「スッテンコロコロ」と転がると描写された。これを不敬であるとして右翼の抗議の声があがり、加熱する批判と擁護の論争のさなかに、右翼団体に所属する17歳の少年が中央公論社の社長宅に押しかけ、社長不在で対応した家政婦を殺害した。


まぎれもなく、天皇制の神聖を揶揄する当代一流作家の言論への野蛮なテロ行為である。しかしこのとき、街頭に「私は中央公論」の声は起きなかった。ペンを立てた群衆の行動もなかった。むしろ、この事件を機に、ジャーナリズムの皇室に関する言論は萎縮した。中央公論社は右派に屈服し、「世界」と並んでいたそれまでのリベラルな姿勢を捨てた。


「シャルリー」は、イスラムの神と預言者の神聖を冒涜する言論によって、テロの報復を受けた。これに抗議し、「私はシャルリー」と声を上げることは、イスラムの神や預言者の神聖が尊重に値するものとしつつも、ヴォルテール流に神聖を冒涜する薄汚い言論の自由を尊重すると立場を明らかにすることなのだ。


「シャルリーのイスラムを揶揄し冒涜する立場には反対だ、だがシャルリー紙がそのような立場の主張をする権利は命をかけて守る」ということなのだ。


敢えて、安倍晋三に問い糺したい。読売や産経にも聞いてみたい。天皇制の神聖を冒涜し、靖国の祭神を揶揄する言論についても、「そのような主張をする権利は命をかけて守る」と言う覚悟があるのか、と。


1月9日付産経社説は、「信教に関わる問題では、侮辱的な挑発を避ける賢明さも必要だろう。だが、漫画を含めた風刺は、欧州が培ってきた表現の自由の重要な分野である」と、表現の自由の肩をもっている。


この原則を「天皇制や靖国に関わる問題では、侮辱的な挑発を避ける賢明さも必要だろう。だが、天皇や靖国を標的にしたものにせよ、批判や風刺は文明が培ってきた表現の自由の重要なその一部である」と、貫くことができるだろうか。ここにおいてこそ、ヴォルテール的な民主主義のホンモノ度が問われることになる。


今回テロに遭遇した言論はマジョリティのキリスト教を批判するものではなくマイノリティのイスラムを標的とするものであった。フランス社会では恵まれない側の人々が信仰する宗教への冒涜の言論であったようだ。かつての植民地支配を受けた末裔の宗教への揶揄でもある。マジョリティの側が「言論の自由を守れ」と言いやすい条件が揃っているように思える。


もし、ヨーロッパでキリストを冒涜する表現について、日本で天皇を揶揄する言論について、群衆が街頭を埋めつくして「マジョリテイの心情を傷つける言論であればこそ、より厳格にその自由を保障せよ」と叫ぶ時代が到来するそのとき、ヴォルテールがはじめて笑みを浮かべることになるだろう。
(2015年1月11日)



弁護士「澤藤統一郎の憲法日記」より転載




言論の自由の本質を鋭く問う、澤藤先生流の問題提起で、確かに自らの問題として捉えると難しいなと思うところがある。
しかし言論の自由とは、それほどの覚悟を持って守るべきものなのだとも教えられる。

そしてこの問題を、政治的に捉えると以下のような記事になるのだろう。

イスラム メディアが指摘
宗教や文明間の対話
中東軍事介入の中止

【カイロ=小泉大介】パリの新聞社襲撃事件とその後の事態をめぐり、中東・イスラム世界のメディアでは、残虐なテロ行為は断じて許せないとの非難とともに、問題の根本的解決のためには欧州でのイスラム教徒排斥の動きや、欧米諸国による中東への軍事介入が中止されなければならないとする論調が目立ってきています。


問題の根本解決へ提言

 エジプトの政府系紙アルアハラム10日付の論評記事は冒頭で、「新聞社を狙った卑劣なテロは、どんな言葉をもってしても非難しつくせるものではない」「いかなる口実によってもこの行為を正当化できるものではない」と強調しました。

 そのうえで、「フランスを含む欧州で広がるイスラム嫌悪感情」の問題を指摘。「アルジェリアやモロッコなどからのイスラム系移民がフランス国民として同化しようとしても、一部は排除され居場所を得られない状況となっており、それが彼らをもっぱら宗教による自己規定に走らせている」と強調しました。

 結論として同記事はアラブやイスラム社会に対しては「イスラム教は寛容と穏健の宗教でありテロや過激主義とは無縁のものであるという理解を確立するため努力する」こと、欧米をはじめとする国際社会に対しては「イスラム敵視をやめ、異なる宗教・文明間の対話を促進する」ことを求めました。

 一方、中東の著名なジャーナリストで、長くロンドン発行の汎アラブ紙アルクッズ・アルアラビの編集長を務めたアブデル・バリ・アトワン氏はさまざまなメディアで、「意見の違いにより他者を殺害することは絶対に正当化できない」としつつ、襲撃された新聞社の反イスラムの立場はレッドライン(越えてはならない一線)を越えていたとも指摘しています。

 さらに、「フランスを含む西欧諸国が中東に軍事介入していることが、イスラム過激組織によるメンバー獲得を容易にしている」と主張。北大西洋条約機構(NATO)軍の介入でカダフィ独裁体制が倒れたリビアやイラク、アフガニスタンの例を上げながら、「イスラム諸国に対する西欧の政策が、無辜(むこ)のイスラム教徒の多数の死に加えて地域の分断と混乱、そして過激派の台頭をもたらしている」と警告します。

 アトワン氏は欧米各国政府に対し、「正義、平等、共存の精神にもとづく政策を採用し軍事介入を自制することが必要だ。これ以上、イスラム教徒を扇動することがないよう望む」と訴えています。

「しんぶん赤旗」より転載


ここでも対決ではなく、対話の大切さが指摘されている。
言論の自由の尊重は、対話の尊重でもあるのだろうと思う。