復興の教訓/成果と課題を伝えていかねば   阪神淡路大震災から19年 | 函南発「原発なくそう ミツバチの会」 ノブクンのつぶやき

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死者・行方不明者が6437人に上った阪神・淡路大震災から19年を迎える。長く険しい復興への道を歩んできた。積み重ねてきた経験と教訓を伝え、東日本大震災の復興や今後の災害への備えに生かしたい。

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 阪神・淡路の激甚被災地、神戸市長田区を歩く「こうべあいウォーク」が今年も行われた。出発地の大国公園周辺は震災後に火災に襲われたが、公園が延焼を食い止めた。クスノキには焼け焦げた跡が残る。近くにはボランティアの拠点となったカトリックたかとり教会がある。


 そこから東へ。JR新長田駅南側には鉄人28号の巨大なモニュメントがそびえ、周辺には高層の再開発ビルが林立する。商店街が連なり、下町の風情が残っていた一帯は、神戸の副都心として20ヘクタールに44棟ものビルが計画された。最後に残った震災復興まちづくりである。


 35棟が完成し、ビルの地下1階から地上2階に商業床が整備されているが、シャッターが下りたままの所が少なくない。未着工で更地のままの区域もあり、2015年度末の完了予定はさらに延期される。


 大規模開発によってまちの活気を取り戻すことはできず、ビルの管理費をめぐり商店主が第三セクターのまちづくり会社に損害賠償を求める訴訟も起きた。復興の厳しい側面が浮き彫りになっている地域だ。


【これでよかったか】


 新長田駅北側の地区では、最大の復興土地区画整理事業が16年間進められ、3年前にようやく事業が完了した。震災前、路地を挟んでケミカルシューズなどを作る小さな工場や商店、住宅がひしめいていた。約8割の建物が全半壊した地域には、広い公園や道路が整備され、マンションも増えた。下町の風景は一変し、傷痕は見えにくくなった。


 その東側の御菅東、西の区画整理地区も同様の状況だが、地元住民は「事業で地域に残ることができた住民は3分の1程度だ。震災前のにぎわいも失われた。これでよかったのかと思う」と振り返った。


 区画整理は基本的に土地の権利者が対象の事業のため、借家人らが地域に残るのは難しい。事業が長期化し、待ちきれずに移転してしまう住民や商工業者もいた。


 復興事業でまちはきれいにはなったが、暮らしの再建への後押しは乏しく、コミュニティーや地域の活力の維持が課題として残った。


 住民に複雑な思いがあるのは当然だ。ただ、地域の将来を考えながら意見を交わし、まちづくりを進めてきたこと自体は大きな財産でもある。防災や高齢者支援、景観などについて住民主体で活動を続ける地域は少なくない。功罪を含めて取り組みを伝えていくことが大事だ。


 ウオークには東日本大震災の被災地でまちづくりなどに取り組む住民らも参加した。高台移転が計画されている宮城県名取市のNPO団体メンバーは「まちづくりを進める上で、住民同士が率直に意見を言い合うこと、コミュニケーションが大事だと感じた」と話す。


 住民中心で考える。その視点が十分でなければ、被災者は復興を実感できない。阪神・淡路の経験を東北の被災地で役立てたい。


【地域の弱点を知る】


 一方、兵庫でも教訓を再点検し、今後の災害への備えを充実させる取り組みが欠かせない。


 阪神・淡路大震災後、被害をできるだけ少なくする「減災」の考え方が強くなった。大災害では被害をゼロにする防災は難しいため、被害発生を前提に軽減させることを目指す。東日本大震災を機に、千年に一度の巨大地震を見据え、「最悪」の事態に備えようとの意識も高まった。


 とりわけ30年以内の発生確率が7割とされる南海トラフ巨大地震への対策は急務だ。


 兵庫県は独自に被害を想定する作業を進めている。昨年12月には阪神、淡路地域に押し寄せる津波による浸水面積が国の想定の約3倍に広がるとの想定を発表した。


 液状化現象による防潮堤や河川堤防の沈下を見込んだため、広範囲になった。尼崎市では川をさかのぼって津波が市街地に押し寄せ、市域の2割が浸水する。洲本市中心部も最大2・6メートルの津波が襲うとした。


 「最悪」の想定だが、地域のどこに弱点があるのかを認識し、対策を考える必要がある。「想定外」の悲劇を繰り返してはならない。


 防潮堤強化などは当然必要だが、構造物だけでは命を守ることに限界がある。どこが安全な場所か、どう逃げるのか、地域で避難対策などを地道に進めていくことが大切だ。


 台風や豪雨も含め災害は続いている。鎮魂の祈りがささげられるきょう、19年の歩みを振り返り、成果と課題を見詰め直す必要がある。


 教訓を兵庫から発信していくことをあらためて誓いたい。




「神戸新聞」社説より転載 写真も



震災直後、支援物資を大型リュックに詰めて、そこまでしか開通していなかった阪神電鉄青木駅を下りた。
2階建ての古い木造家屋は一階が潰れて道路に崩れ落ち、道路を歩くのも大変だった。
学校の校庭では、自衛隊設営の仮説風呂に長蛇の列。
橋脚が倒れた阪神高速道路の脇を歩いた。
友人がいた東灘区役所は大混乱の最中で、まるで満員電車の中のようだった。
あれから19年、昨年12月にも神戸に出かけたが、当時の面影はどこにもなかった。

静岡県も東南海地震の危険が高まる。
明日は我が身かも知れない。
人はどう生きるのかを大自然が問い続けている。