中世のふるさと6 -俊乗房重源が周防徳地に- | Issay's Essay

中世のふるさと6 -俊乗房重源が周防徳地に-

739 徳地町梶畑の重源上人遺跡・袈裟岩

 現在、山口市に編入(平成17年=2005)された徳地町は、山口県の中部佐波川上流の山間部にあり山口市全域の40%を占め、その90%は山林が占めているといわれる。
 律令制下の国家体制が確立し、周防国庁が開設されると国衙領に位置づけされ、石見国への通路にあたることから政治的にも重要な地域となっていた。平安時代に、関白藤原兼実の所領となって「得地」という名称が誕生したという。
 治承4年(1180)4月、源頼政の打倒平家に呼応して各地に挙兵があり、これに対する平家政権は南都焼け打ちが行われ、この時、東大寺や興福寺などが灰燼となった。
 この衝撃は大きくて、朝廷内部では後白河法皇などを中心として再建計画が検討され文治2年(1186)周防国を東大寺再建の造営料国と定めて、俊乗房重源を再建の大勧進に任命し、重源以下10余人と宋人・陳和卿、番匠物部為里、桜島国宗らが周防国に向され、その年4月10日には徳地の地に杣を求めたという。
 その頃の周防国は、非常に荒廃していたと記録にある。また、在庁官人としての豪族、中でも多々良氏などを筆頭として、中央からの重源の派遣に少なからず反発もあって、その事業をご家人らと妨害もしている。
 しかし、重源はすでに安元元年(1175)博多誓願寺の丈六阿弥陀如来像のため周防の木材を調達し、早くから宋人たちの進んだ技術を用いて西国で活動していたこともあって、道を造り、橋をかけ、寺を建てるなどして杣人に喜ばれる事績をあげ、なおかつ労働力軽減のために轆轤(ろくろ)など用いて材木運搬を効率化した。
 また官人たちには、私領田畑を寄進させ国衙の賦課を免除するなどの方策で、官人などの結束を強化し、結局は反抗勢力を味方につけて国務を妨げる地頭などを説得させて事業を遂行させていく。
 写真は、徳地町梶畑の重源上人遺跡・袈裟岩