旅の記念品 23 -無言館の冊子-
大戦終結から76年となる終戦の日を迎えた本年は日曜日だった。ニュースは、停滞する前線が一週間も続き西日本を中心に記録的な大雨となり各所で土砂崩れや川が氾濫、佐賀県武雄市あたりは広範囲が湖のように水没した様子を空撮で伝えていた。
NHKの「日曜美術館」を出来るだけ見ることにしているが、この日は「無言館の扉-語り続ける戦没画学生-ほか」となっていた。
私は、あちこちに出かけたとき簡単な資料や小冊子などを求める。平成20年(2008)に信州に出かけたのは、坂本龍馬と寺田屋事件に遭遇した長州藩士・三吉慎蔵の長男・米熊が上田市の蚕業発展に尽力されていることから、蚕都上田市と長野市を巡る文化バスを企画したときであり「上田に行くなら無言館にも」といわれ「無言館」を組み入れて、下見と本番の2回このコースを訪ねている。
「無言館」は戦没画学生慰霊美術館「無言館」というのが正式名称である。
数多くの若い命が戦場の露と消えた中には、画家になることを夢見ながら犠牲になった方もいる。当時の東京美術学校や帝国美術学校に在籍していた人など、前途ある画家の卵たちのひたむきな彼らの「生への軌跡」青春の息吹を伝えようと、平成9年(1557)5月に開設された。その施設は、上田市古安曽三王蚕462にあり、信濃デッサン館の分館として上田市から提供された東隣の丘の上に鉄筋コンクリート打放しの平屋建て(約400㎡)。画学生97名の遺作、遺品、資料など約650点を収集、展示している。館の裏手には収蔵庫「時の庫」も建てられている。前庭にパレット状の黒御影石のモニュメントには、戦没画学生の名前420名が刻まれ、それはまさに鎮魂の慰霊碑である。
特別な玄関もなく、足を踏み入れると暗い館内はほぼ見渡せるほどの広さ。私が最初に行ったときは金曜日だったが結構入館者があり、絵を見ている人たちのまなざしは普通の美術館とは何だか違っているようだった。
絵の下に「名前、出生年、出身地、没年月と場所、享年」を書いたプレートがあり、ところどころに学生さんの気持ちが文章になったプレートもあった。佐久間修のデッサンは初々しいもで、享年29歳、大村でB29の爆撃にあって亡くなっていた。虫の知らせか、妻をモデルにして描いた初めてのヌードだったという。
フイリッピンレイテ島で戦死した蜂谷清(享年22歳)のどっしりとした生真面目なお婆ちゃんはいまにも呼び掛けてきそうな「祖母なつの像」であるが、「わしもいつかは出征せんにゃならん、そしたらこうしてばぁちゃん顔も描けなくなる」とあった。
同行のM氏が、「山口県の人もいましたね」と帰りに声をかけた。徳山の初紅葉酒造の人で、原田新(昭和18年8月、ニュージョージア島近海で戦死、享年24歳)、彼の無二の親友、熊毛郡の久保克彦(昭和19年7月、中国湖北省で斥候中狙撃を受け戦士、享年25歳)も展示されていて、彼の父は自由律俳人・久保白船である。
当時のことを思いながら、「無人館」で求めた2冊の本を、テレビの前に並べて「日曜美術館」の放映を待った。映像が流れ始めると、当時お会いできなかった館長の窪島誠一郎さんがゲストで、画学生の遺品収集の切掛けを話された。そのきっかけは画家の野見山暁治氏、彼も卒業後〝粉雪が砂のようになぶる戦地を体験、友人たちはどんな思いで辺境の地に息を引き取ったものか‥(主記より“初めは野見山氏と同行であとの四分の三は窪島氏の一人旅”)
記念品とした本の中には、画学生の遺族を訪ねその思い出を聞き蒐集したことや無言館建設から運営、お客さんの反応のことなどまでも描かれているが、テレビでは、遺族から預かった絵の修復の思いなどが取材されていて。「この絵に限って損傷こそ語るものがある、感動を残存させたいという葛藤など」絵そのものが語ってくる修復の難しさ、あるいは「人間の命、生きている時間が一番尊いのだと訴えている」などと、生の声が聴かれたことが良かった。番組では、幾らかの絵の説明はあったが、ここでは止そう。機会があれば、「祈りの絵」を展示する「無言館」に出向いてほしいと思わせる番組だった。
写真はテレビの前に置いた無言館の冊子とNHK日曜美術館放映の様子
