鹿児島への旅(4)-4
薩摩半島西岸に位置する南さつま市といえば、坊津町が有名。唐の高僧・鑑真和上が日本上陸を果たした地で立派な鑑真記念館もあるのだが今回は割愛した。
先ず目指したのが加世田の竹田神社で、以前、私が鹿児島を訪問して印象深く残っていたので是非、皆に見て頂きたいと思ってのことだった。
島津氏中興の祖といわれる島津忠良公、のちの日新斎(じっしんさい)ゆかりの場所で、永禄7年(1564)島津忠良が再建した日新寺が、明治5年に廃仏毀釈で破壊され廃寺となり、翌年そのあとに、忠良を祀る社として建てられたのが竹田神社である。
大楠やイヌマキが歴史を物語り、7月23日の夏まつりには士(さむらい)踊り(二才〈にせ〉踊りと稚児踊り・県民俗文)が奉納される。境内の南西に日新公と夫人覚庭大姉や殉職者の墓があり、本殿から墓への並木道には「いろは歌の歌碑」(昭和59年建立)が並んでいる。この日も、当地の高校生がガイドの説明を聞きながら神社周辺の史跡を見学しているのを「素晴らしいことだ!」と思った。
島津忠良との因縁は、薩摩半島西部の別府城を14代島津勝久(宗家)が所領としていた時、出水・薩州家5代の島津実久の横暴に苦慮して、隣接地の伊作(亀丸城)の島津忠良の子・貴久を養子に迎えて、勝久・忠良の連合軍の形で対立抗争により忠良側が勝利した。その後、宗家家督を巡る内紛がさまざまに続いたが貴久はやがて藩主となり、三州統一の切掛けとなり、忠良はこの地を隠居地とした。
忠良は、知性に優れ人心をうまくつかんだといわれる。
「いろは歌」は、忠良が仏教・神道・儒学・武道などの教えを分かり易く47首に纏めたもので、薩摩論語ともいわれ、後世まで鹿児島の子弟教育の指針とされ薩摩人の心の中に生き続けていた。(例3首)
い いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし
き 聞くこともまた見ることも 心から 皆まよいなり 皆悟りなり
す 少しきを足れりとも知れ 満ちぬれば 月もほどなく十六夜の空
忠良は、明応元年(1492)伊作で誕生、永禄11年(1568)77歳にて加世田に没。この間、別府城(加世田)の戦いで出た多数の戦死者を弔うため六地蔵塔を建て施餓鬼供養を行った。塔正面に「一切の罪も消えなむ阿弥陀地蔵四十九の身の四十八願」とある。
私たちは、この六地蔵塔を見てから吹上浜に向かった。
吹上浜は、南さつま市の北西部から日置市、いちき串木野市にかけての砂丘海岸で、長さは約47㎞あり、砂丘としては日本一の長さ。日本三大砂丘の一つと呼ばれている。
その南部、南さつま市には広大な海浜公園があり、昭和62年(1987)からほぼ毎年「吹上浜砂の祭典」が開催されている。公園の万之瀬川河口に架かる吹上浜サンセットブリッジは、全長405m、幅6mの歩行者・自転車専用の斜張橋で平成5年(1993)に完成した。
砂丘といえば、雄大な鳥取砂丘を思い浮かべるが、吹上浜は幅がさほど広くはなく松林や草に覆われた部分が多く、写真で砂丘を表現するには時間が必要であろう。当日はウインドサーファー数名が楽しんでいた。
吹上浜海浜公園一帯は、太平洋戦争末期には、知覧本部と万世、都城、台湾、熊本、鹿屋、大刀洗などとともに最後の特別攻撃隊の基地「万世(ばんせい)飛行場」があった場所で、戦時中わずか4ヶ月しか使用していなかったが、17歳の少年飛行兵を含めて「祖国のため」を合言葉に沖縄の空へ特攻隊員が飛びたった。
万世平和記念館は、教官を務めた教員たちが中心となって、隊員たち最後のメーセージや遺品、遺影などを蒐集し航空隊員201名の慰霊のため平成5年(1993)に開館。令和2年8月から令和3年3月までリニューアルが行われていたが、このほどタイミングよく4月1日開館されたことを知って、知覧平和記念館を省いた代わりの見学だった。
平成4年(1992)に、吹上浜沖約600m(水深5m)の海底に沈んでいた零式三座水上偵察機が47年ぶりに引き上げられていたものが記念館1階中央に据えられ、2階には万世飛行場の歴史とともに隊員たちの遺影や遺品が展示され、遺骨無き少年飛行兵たちの声が時代を超えて訴えてくるものがあった。これを書いていた4月12日、そこに行ったばかりの現地で、第50回の慰霊祭が開催されたニュースが流れ、特攻兵士を送ったという同僚93歳の方が、戦後75年たった今も涙ながらに思いを語るインタビューが流れた。
中世の家督相続の争い、或いは特攻飛行隊士の悲劇を感じながら、コロナ禍の世情にありながらも、争いごとはあってはならないと「平和の尊さ」を思う旅であった。
写真は、いろは歌碑のある竹田神社と万世平和記念館の展示飛行機
