灯台写真展始末記 | Issay's Essay

灯台写真展始末記

623 灯台写真展の会場風景

 昨12月13日で終えた写真展『下関・2基の灯台』は、期間が約1月あった。
 教育委員会後援のための申請書類には、予想観客数200名として提出した。場所がカフェレストなので、常連さんは居られるが、数の上乗せは一応観覧を目的に来られる方々あり、前回の『回天感懐』の記帳が270名だったので、今回は題材が地味なこととコロナ禍中の人出自粛を思って少なくしておいた。
 この写真展は、下関市にある六連島灯台と角島灯台の灯台2基と対岸門司の部埼灯台、それに千葉県の犬吠埼灯台の4基が現役灯台として初めて重要文化財への答申(10月16日)があったことで、これが嬉しくって急きょ写真展を思い立った祝福記念展だった。
 報道については、急きょの思い付きと作品としての満足感に躊躇したことも重なって、記者クラブ投げ込みで特別に説明をすることはしなかった。
 案の定、報道の反応は決して良かったとは言えない。11月15日の初日までに、サンデー下関の予告と初日の朝日新聞掲載は有り難かったが、毎日新聞は半月後の12月2日、読売新聞と地元の山口新聞は後4日を残した12月9日の掲載だった。今回は、テレビ取材は一局もなかった。案内状は320通、コロナに関係もあって遠方に知人も遠慮した状態だった。それでも芳名帳への記載者が250名に達したことは、一応申請をクリアしたことになるので内心は安堵した。
 今回は、作品というよりテーマが「重要文化財になるという灯台」という関係から、行政に携わる方々や報道の方たちがどれほど関心を持って頂けるかも、自分としては一つの賭けでもあり興味を持っていた。実力のなさは自業自得でもあるだろうが、報道については惨敗。逆に言えば無関心過ぎるとも感じた。記帳には現市議会員が2名あった。
 お礼状の葉書には「重文指定2020.12」と刷り込んで210枚発送したが、これが何時確定するのか12月下旬になっても発表が無いのが心配になった。”勇み足”かと不安もよぎったが12月23日付の官報に重文指定が発表されて、これは一安心だった。
 官報には「旧金ノ弦岬灯台」と言われていた灯台が名称を「旧俎(まないた)礁標」と変更し「六連島灯台の付けたり」として重文に含まれていた。これは当時、海上保安庁では不要となり処分される寸前、住民の要望で、市が取得し文化財指定されたものである。 
 答申時の報道では、2灯台について良かったナとは思っていたが、こんな具体的なことは無く知らなかった。こうした嬉しいことが、まさか蜜を避けた隠密とも思えないが、24日のどこの報道も無関心で、重文決定の発表が無かったのは何故だろう。せめて地元の情報として新聞にはこうした記録が掲載されればと思った。
 世の中に「新聞離れ」という現実がある。必要なことの不掲載も一つの原因ではないだろうか。官報に重要文化財指定が掲載されていることを、ふと、最初に写真展を報じて頂いた一新聞社に連絡しておいた。
 年末までコロナ禍で滅入った中で、下関市の旧灯台を含めて3基の灯台が重要文化財に指定されたことは、市民にとっても2020年の大きな朗報だったと言えるだろう。
 写真は灯台写真展の会場風景