旅の記念品(13)-絵ろうそく-
会津藩と南部藩は戊辰戦争で最後まで薩長に抵抗していたことで「会津藩の怨恨は今に続いている」と以前から聞かされていた。
最初にその会津を訪ねたのが何時だったか記憶に無いが、平成の初め佐渡に渡った帰り道、折角ここまで来たからと、飯森山の白虎隊士のお墓と若松城跡を見るだけのために会津若松まで足を延ばした。そのとき、宿帳に「下関市」と書いたときに「山口県ですね、いやいや特別に感情はありませんよ!」と言われたが、意識されているなぁと思った、”まぁ旅館だから‥”と受けとめた。
二度目は、文化バスのお世話をしていた平成17年(2005)、丁度500回記念に当たるので「秋のみちのく史跡探訪」として平泉・会津を中心のコースを考え7月に下見を行った。
司馬遼太郎の本に「怨恨はなお現実の病根として生きている」などと読んでいたが、大正7年(1918)に原敬は戊辰戦争殉難者50年祭を自らが行い「戊辰戦争に賊も官も無い。政権の違いがあったのみである。このことはすでに天下に明らかであり、諸子もって瞑すべし」と祭文にかかれていることも読んでいて、現地の飯森山麓のお店で「司馬さんの本で・・」と話を出したとき「そんなことはありませんよ、現に私は『戊辰戦争慰霊の集い』のお世話をしていて、敵も味方もありません‥」などと話が弾んだ。
会津若松の市内には西軍墓地もあって綺麗に整備され、長州藩関係23名の志士たちが祀られていた。3度目に訪ねた平成17年10月の文化バスの本番では、このお墓の前で参加者全員で香を供え冥福を祈った。
その2度目の訪問で、飯森山山麓のお店で購入したのが花柄の美しい「絵ろうそく」だった。和ろうそくの原料は、植物のハゼノキの実の油(木ろう)で、この木ろうは、パラフィンやワックスに無い独特の粘りがあり、食品衛生法にも適した安全性を持っていることから、現在でも化粧品の口紅、ハンドクリーム、軟膏、クレヨン、鬢付けなどと生活のなかに多く使用されている。
和ろうそくの芯は、和紙の上にイグサの燈心草を巻いた灯芯や紙芯を使用してつくられる。
絵ろうそくは、東北や北信越など寒い地方で冬になると仏壇に花が飾れないので、ろうそくに花の絵を描いてお供えしたのが始まりとか・・。法事ではお寺様のお経と共に、絵ろうそくの花柄は燃えてなくなってゆくが、燃えた分だけお花がご先祖様に届くという「散華」の考え方である。
毛利氏は、防長36万石に滅封され藩財政が苦境に追い込まれたとき、米、塩、紙と共に天和元年(1681)の頃からハゼノキ植栽を始めハゼ蝋の増産に勤め、防長四白の自由取引の強化を図った結果、幕末の長州藩は、約100万石の内高になったとされている。
和ろうそくの炎の揺らぎは幻想的でもあり、ふと幕末期の戊辰戦争を思い浮かべ「戦争こそあってはならなかった」と想うのである。
写真は会津若松市の長州藩志士の墓と会津絵ろうそくの炎
