旅の記念品(3)-象山神社・合格祈願の鉛筆- | Issay's Essay

旅の記念品(3)-象山神社・合格祈願の鉛筆-

579 象山神社社殿と合格祈願の鉛筆

 信州松代(長野県松代町)は、幕末の思想家・佐久間象山の生誕地で象山神社があることから、高杉晋作に関係して4度ばかり訪問したことがある。
 晋作は、万延元年(1860)1月萩城下の井上マサ(雅)と結婚するが、4月には藩の軍艦に乗り江戸に向かい『東帆録』を記す。江戸に着いた晋作は、関東、信濃、北陸を回り剣術修行して帰国することを願い出て、それは剣術だけではなく笠間で儒者・加藤有隣、松代で佐久間象山、福井で思想家・横井小楠と会う目的もあった(『試撃行日譜』)。
 この『試撃行』に触発されて、昭和57年(1982)に高杉晋作写真集の取材にかかったときが最初の旅で、東京から信州への現地探訪と資料収集だけだった。
 佐久間象山は、信州松代藩士の佐久間一学の長男として文化8年(1811)に生れた。6歳から父に学問武術を学び、青年になってからは渡辺崋山・藤田東湖とも親交があり、29歳のとき江戸に象山書院を開き門弟が多く集まった。藩主・幸貫が老中で海防掛のとき『海防八策』を幕府に上申した。41歳で開いた塾には勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・橋本佐内など維新の秀才を輩出している。
 蘭学、砲術に通じ、海防の急務を主張する傍ら横浜開港を主張。安政元年(1854)門人・吉田松陰の密航事件に連座して投獄幽閉。44歳から9年間松代に蟄居。この間、高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎らが面会に訪れ時勢を激論、晋作はその学識に接している。54歳、元治元年(1864)幕命によって上洛、将軍家茂・一橋慶喜らに公武合体開国を説き活躍中、7月11日攘夷派の浪士に暗殺された。
 象山神社は、大正2年(1913)、佐久間象山の殉職50年を契機に神社建設計画が進められ、全国関係者からの協力で昭和13年11月3日、象山誕生の地に県者として創建された。境内には京都にあった象山最後の住居「煙雨亭」と蟄居のときの住居「高義亭」が移設されている。近くには象山記念館もある。
 佐久間象山は、現地では「ゾウザン神社」と呼んでいた。私は平成20年に長野を訪ねたとき松本城や安曇野、川中島古戦場、真田宝物館、上田城、無言館など一般の観光施設も巡って、この時も象山神社にも参拝し、何か記念にと思って購入したのが「合格 象山神社」と金箔で押されたHB鉛筆5本入りセットだった。これをいまだに使用しないでいる。
 写真は象山神社社殿と合格祈願の鉛筆