北前船おちこち(32) -金沢の錢屋五兵衛- | Issay's Essay

北前船おちこち(32) -金沢の錢屋五兵衛-

364 銭屋五兵衛記念館と銭屋五兵衛銅像

 金沢市中心部からから、日本海に向かって西へ8kmばかりのところに、松林の繁みがある小さな港町・金石(かないわ=旧・宮腰)があります。ここが、北前船時代に海上輸送の中心だった港でした。特に、その主役でもあった豪商・銭屋五兵衛の銅像は少しはなれて松林の中の公園に、松の木に負けじと高く恰幅のいい姿で建っています。
 銭屋五兵衛については、村上元三や海音寺潮五郎らによっても波乱万丈の生涯が書かれ、船橋聖一は『海の百万石』上・中・下巻(講談社)で加賀藩政下の策謀を踏まえた小説にもなっています。
 金石本町には石川県銭屋五兵衛記念館があり、その生涯を語る施設になっていて、俗に「銭五」と呼ばれる銭屋五兵衛について 
 「安永4年(1773)宮腰に生まれ幼名は茂助、17歳で家督を継ぎ3代目の五兵衛となり、家業の両替商・醤油醸造業のほか新たに呉服材木商を営み町の要職にも着いていた。父が反対していた海上への夢は、質流れで手にした古い船を修理し米を運んだ文化8年(1811)39歳のときに実現。本格的な海運活動は文政期(1818~30)からで、最盛期は天保期(1830~44)を中心とする約20年間、加賀藩の御用海商として巨万の富を築き、その莫大な上納金は藩の財政を潤しました。
 晩年は陸上の事業に転換し、嘉永4年(1851)河北潟を20年計画で干拓して美田にするという事業を藩の許可を得て着手。ところがこれの反対者に工事は妨害され、着工後1年、偶然発生した水の腐敗現象が原因で魚が死に、毒を投じたという無実の罪、あるいは銭五の海外交易が幕府に察知されたこと(真相は不明)で、河北潟干拓事業の失策を口実に五兵衛一族或は工事関係者が逮捕、投獄されて、2ヵ月後の嘉永5年(1852)11月、80歳の獄中病死でした。
 宮腰の本店を中心に、松前・長崎・江戸まで全国に支店・出張所が34ヵ所。資産が約300万両、持ち船は2500積みを筆頭に200数隻。
 家憲8ヶ条や商訓3ヶ条にみる銭五は、商売上の必要経費は惜しまなかったが、日常の贅沢を戒め質素倹約を折りに触れて強調していた。一面多方面の文人墨客と交流し、自らも書画、俳諧、茶道に親しんだ文化人だった」とあり、記念館には京都からきて銭五のブレーンとなった博学の大野弁吉のからくり作品の数々など多くの資料も置かれていました。
 写真は銭屋五兵衛記念館と銭屋五兵衛銅像