北前船おちこち(31) -金沢の文化- | Issay's Essay

北前船おちこち(31) -金沢の文化-

363 金沢の文化を感じる観光地の兼六園

 福井平野の北、北陸本線の芦原温泉駅を過ぎると間もなく石川県となります。
 その石川藩は、加賀・越中・能登の三ヵ国の太守加賀前田家120万石、外様大名ながら全国最大の徳川御三家と同格で、廃藩置県後は越中が分かれて石川県となりました。県境から北北東に、加賀・小松・金沢・羽咋市から輪島半島へと約200km日本海沿いの細長く続き能登半島の南東部は富山県氷見市、高岡市となっています。今年平成27年(2015)3月14日に、和と伝統美、最新技術と機能美を登載して北陸新幹線が金沢まで延伸開業、金沢は特に観光ブームになっているようです。
 その加賀地方では、安宅や美川あたりには、河口を利用した北前船の港があったようですが、ここではやはり金沢に見る加賀藩の支配と仕組でしょう。
 加賀藩が、徳川政権下で潰されずに済んだのは三代・利常の機転、徹頭徹尾「文化」にうつつを抜かし「軍備に無関心な藩である」という印象を幕府に信じさせたことにあります。
 上方文化と江戸文化を貪欲に吸収し、これが独特の美術工芸・芸能・食文化、つまり加賀友禅、蒔絵漆器、九谷焼、金箔工芸、能楽、茶道、茶菓子までを発展させました。
 一方この領内産業・物産流出保護の関係で皮肉にも自藩による海運業はあまり進まず、木材調達や大阪回米にしても他国船或は藩内の船主の利用が多くなり、金石港や粟崎港、はては能登福浦港などを利用した豪商の出現となります。
 栗崎港は、現在の新しい金沢港の近くにありましたが、大野川河口の船主たち木屋藤右衛門・島崎徳兵衛・木屋治助らが湊を築き、御材木御用などを勤めて藩と結びつき、藩の財源を支えていたといわれます。それは、実質的には大船を持って「海の百万石」といわれた金石港の銭屋五兵衛をはるかにしのいでいたと伝えられます。その大野地区は、戦後講和条約発効直後に起こった軍事基地反対闘争、美しい自然と、風紀問題、漁業権を守ろうと「金は一時、土地は万年」のムシロ旗を掲げて演習基地着弾点に座り込んだ素朴な漁民たちの闘争運動の舞台になった場所で、この「内灘闘争」は愛村同志会の補償金目当ての勢力で崩れますが、藩政時代から古い体質に抑え続けられた民衆が、かって一向一揆の精神を呼び覚ます行動だったのではと思えるパワーではなかったでしょうか。
 写真は金沢の文化を感じる観光地の兼六園