志布志の種田山頭火② | Issay's Essay

志布志の種田山頭火②

305 山頭火『行乞記』と「・・巡査に叱られた」句碑

 武家屋敷群から大慈寺に向かう途中の公民館分室の前にも句碑がありました。
これは、山頭火の鹿児島行乞を断念させたと思わせる傑作で「秋の空高く巡査に叱られた」の句が、くっきりとした文字でどうどうと建てられています。
 山頭火は、昭和5年(1930)10月、日向の油津から南郷川を遡って現在の串間市福島を経て、10日には郵便局留めの郵便物を受け取るために志布志にやって来て、ここの鹿児島に泊っています。
 山頭火の『行乞記』によれば「安宿の朝は面白い、みんなそれぞれめいめいの姿をして出てゆく、保護色といふやうなことを考へざるをえない。・・・今日の行乞相はよくもわるくもなかった。嫌な事が四つあった、同時にうれしい事が四つあった。憾むらくは私自身が空の空になれない事だ。嫌いも好きもあるものか。・・10月11日。9時から11時まで行乞、こんなに早う止めるつもりではなかったけれど、巡査にやかましくいはれたので、裏町へ出て、駅で新聞を読んで戻って来たのである。・・夕べ、一杯機嫌で海辺を散歩する。やっぱり淋しい、淋しいのが本当だろう。行乞している私に向かって、若い巡査は曰く、托鉢なら托鉢のやうに正々堂々とやりたまへ、私は思ふ、これでずゐぶん正々堂々と行乞してゐるのだが。・・」などと無念な気持ちを記しています。
この当時、鹿児島県では、行乞、押売、すべての見師の行動について、法文通りの取締をしていたようで、その一言が、山頭火を鹿児島嫌いにしてしまったようで、それ以後も、鹿児島県を訪ねようとしていません。
 翌10月12日、9時の汽車に乗って、都城に向かう汽車の中で記したと思われますが、多くの句の中に、行乞即時として「秋の空高く巡査に叱られた」「言葉が解からないとなりにいる」「その一銭はその児に与へる」などの俳句があり、この日の『行乞記』には、これらの句の後に「山に入っても、雲のかなたにも浮世があるという意味の短歌を読んだことがある、ここも山里塵多しとの語句も覚えている。・・・煩悩即菩提、生死去来真実人、さてもおもしろい人生人生」と憂鬱が付きまとっている感じの文章が続いています。
 写真は、山頭火『行乞記』(春陽堂書店・文庫本)と「・・巡査に叱られた」の句碑